食魔
岡本かの子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)菊萵苣《きくぢさ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)この上|墜《お》ちようもない
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+胥」、第4水準2−78−89]《した》った
−−
菊萵苣《きくぢさ》と和名はついているが、原名のアンディーヴと呼ぶ方が食通の間には通りがよいようである。その蔬菜《そさい》が姉娘のお千代の手で水洗いされ笊《ざる》で水を切って部屋のまん中の台俎板《だいまないた》の上に置かれた。
素人の家にしては道具万端整っている料理部屋である。ただ少し手狭なようだ。
若い料理教師の鼈四郎《べつしろう》は椅子《いす》に踏み反り返り煙草《たばこ》の手を止めて戸外の物音を聞き澄ましている。外では初冬の風が町の雑音を吹き靡《なび》けている。それは都会の木枯しとでもいえそうな賑《にぎや》かで寂しい音だ。
妹娘のお絹はこどものように、姉のあとについて一々、姉のすることを覗《のぞ》いて来たが、今は台俎板の傍に立って笊の中の蔬菜を見入る。蔬菜は小柄で、ちょうど白菜を中指の丈けあまりに縮めた形である。しかし胴の肥《ふと》り方の可憐《かれん》で、貴重品の感じがするところは、譬《たと》えば蕗《ふき》の薹《とう》といったような、草の芽株に属するたちの品かともおもえる。
笊の目から※[#「さんずい+胥」、第4水準2−78−89]《した》った蔬菜の雫《しずく》が、まだ新しい台俎板の面に濡木《ぬれぎ》の肌の地図を浸み拡《ひろ》げて行く勢いも鈍って来た。その間に、棚や、戸棚や抽出《ひきだ》しから、調理に使いそうな道具と、薬味容《やくみい》れを、おずおず運び出しては台俎板の上に並べていたお千代は、並び終えても動かない料理教師の姿に少し不安になった。自分よりは教師に容易く口の利ける妹に、用意万端整ったことを教師に告げよと、目まぜをする。妹は知らん顔をしている。
若い料理教師は、煙草の喫《す》い殻を屑籠《くずかご》の中に投げ込み立上って来た。じろりと台俎板の上を見亙《みわた》す。これはいらんという道具を二三品、抽《ぬ》き出して台俎板の向う側へ黙って抛《ほう》り出した。
それから、笊の蔬菜を白磁の鉢の中に移した。わざと肩肘《かたひじ》を張るのではないかと思えるほどの横柄な所作は、また荒っぽく無雑作に見えた。教師は左の手で一つの匙《さじ》を、鉢の蔬菜の上へ控えた。塩と胡椒《こしょう》と辛子《からし》を入れる。酢を入れる。そうしてから右の手で取上げたフォークの尖《さき》で匙の酢を掻《か》き混ぜる段になると、急に神経質な様子を見せた。狭い匙の中でフォークの尖はミシン機械のように動く。それは卑劣と思えるほど小器用で脇《わき》の下がこそばゆくなる。酢の面に縮緬皺《ちりめんじわ》のようなさざなみか果てしもなく立つ。
妹娘のお絹は彼の矛盾にくすりと笑った。鼈四郎は手の働きは止めず眼だけ横眼にじろりと睨《にら》んだ。
姉娘の方が肝が冷えた。
匙の酢は鉢の蔬菜の上へ万遍《まんべん》なく撒《ま》き注がれた。
若い料理教師は、再び鉢の上へ銀の匙を横へ、今度はオレフ油を罎《びん》から注いだ。
「酢の一に対して、油は三の割合」
厳かな宣告のようにこういい放ち、匙で三杯、オレフ油を蔬菜の上に撒き注ぐときには、教師は再び横柄で、無雑作で、冷淡な態度を採上げていた。
およそ和《あ》えものの和え方は、女の化粧と同じで、できるだけ生地《きじ》の新鮮味を損《そこな》わないようにしなければならぬ。掻き交ぜ過ぎた和えものはお白粉《しろい》を塗りたくった顔と同じで気韻《きいん》は生動しない。
「揚ものの衣の粉の掻き交ぜ方だって同じことだ」
こんな意味のことを喋《しゃべ》った鼈四郎は、自分のいったことを立証するように、鉢の中の蔬菜を大ざっぱに掻き交ぜた。それでいて蔬菜が底の方からむら[#「むら」に傍点]なく攪乱《かくらん》されるさまはやはり手馴《てな》れの技倆《ぎりょう》らしかった。
アンディーヴの戻茎の群れは白磁の鉢の中に在って油の照りが行亙り、硝子越《ガラスご》しの日ざしを鋭く撥《は》ね上げた。
蔬菜の浅黄いろを眼に染《し》ませるように香辛入りの酢が匂《にお》う。それは初冬ながら、もはや早春が訪れでもしたような爽《さわや》かさであった。
鼈四郎は今度は匙をナイフに換えて、蔬菜の群れを鉢の中のまま、ざっと截《き》り捌《さば》いた。程のよろしき部分の截片を覗《うかが》ってフォークでぐざ[#「ぐざ」に傍点]と刺し取り、
「食って見給え」
と姉娘の前へ突き出した
次へ
全22ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング