。その態度は物の味の試しを勧めるというより芝居でしれ[#「しれ」に傍点]者が脅《おど》しに突出す白刃に似ていた。
 お千代はおどおどしてしまって胸をあとへ引き、妹へ譲り加減に妹の方へ顔をそ向けた。
「おや。――じゃ。さあ」
 鼈四郎はフォークを妹娘の胸さきへ移した。
 お絹は滑らかな頸《くび》の奥で、喉頭《こうとう》をこくりと動かした。煙るような長い睫《まつげ》の間から瞳《ひとみ》を凝らしてフォークに眼を遣《や》り、瞳の焦点が截片に中《あた》ると同時に、小丸い指尖《ゆびさき》を出してアンディーヴを撮《つま》み取った。お絹の小隆い鼻の、種子《たね》の形をした鼻の穴が食慾で拡がった。
 アンディーヴの截片はお絹の口の中で慎重に噛《か》み砕かれた。青酸《あおずっぱ》い滋味が漿液《しょうえき》となり嚥下《のみくだ》される刹那《せつな》に、あなやと心をうつろにするうまさがお絹の胸をときめかした。物憎いことには、あとの口腔《こうこう》に淡い苦味が二日月《ふつかづき》の影のようにほのかにとどまったことだ。この淡い苦味は、またさっき喰《た》べた昼食の肉の味のしつこい記憶を軽く拭《ふ》き消して、親しみ返せる想《おも》い出にした。アンディーヴの截片はこの効果を起すと共に、それ自身、食べて食べた負担を感ぜしめないほど軟く口の中で尽きた。滓《かす》というほどのものも残らない。
「口惜しいけれど、おいしいわよ」
 お絹は唾液《だえき》がにじんだ脣《くちびる》の角を手の甲でちょっと押えてこういった。
「うまかろう。だから食ものは食ってから、文句をいいなさいというのだ」
 鼈四郎の小さい眼が得意そうに輝いた。
「ふだん人に難癖をつける娘も、僕の作った食もののうまさには一言も無いぜ。どうだ参ったか」
 鼈四郎は追い討ちしていい放った。
 お絹は両袖《りょうそで》を胸へ抱え上げてくるりと若い料理教師に背を向けながら、
「参ったことにしとくわ」
 と笑い声で応けた。
 ふだん言葉かたき同志の若い料理教師と、妹との間に、これ以上のうるさい口争いもなく、さればといって因縁を深めるような意地の張り合いもなく、あっさり済んでしまったのをみて、お千代はほっとした。安心するとこの姉にも試しに食べてみたい気持がこみ上げて来た。
「じゃ、あたしも一つ食べてみようかしら」
 とよそ事のようにいいながらそっと指尖を鉢に送って小さい截片を一つ撮み取って食べる。
「あら、ほんとにおいしいのね」
 眼を空にして、割烹衣《かっぽうい》の端で口を拭《ぬぐ》っているときお千代は少し顔を赭《あから》めた。お絹は姉の肩越しに、アンディーヴの鉢を覗き込んだが、
「鼈四郎さん、それ取っといてね、晩のご飯のとき食べるわ」
 そういった。
 巻煙草《まきたばこ》を取出していた鼈四郎《べつしろう》はこれを聞くと、煙草を口に銜《くわ》えたまま鉢を掴《つか》み上げ臂《ひじ》を伸して屑箱《くずばこ》の中へあけてしまった。
「あらッ!」
「料理だって音楽的のものさ、同じうまみがそう晩までも続くものか、刹那《せつな》に充実し刹那に消える。そこに料理は最高の芸術だといえる性質があるのだ」
 お絹は屑箱の中からまだ覗《のぞ》いているアンディーヴの早春の色を見遣《みや》りながら
「鼈四郎の意地悪る」
 と口惜しそうにいった。「おとうさまにいいつけてやるから」と若い料理教師を睨《にら》んだ。お千代も黙ってはいられない気がして妹の肩へ手を置いて、お交際《つきあ》いに睨んだ。
 令嬢たちの四つの瞳《ひとみ》を受けて、鼈四郎はさすがに眩《まぶ》しいらしく小さい眼をしばたたいて伏せた。態度はいよいよ傲慢《ごうまん》に、肩肘《かたひじ》張って口の煙草にマッチで火をつけてから
「そんなに食ってみたいのなら、晩に自分たちで作って食いなさい。それも今のものそっくりの模倣じゃいかんよ。何か自分の工風《くふう》を加えて、――料理だって独創が肝心だ」
 まだ中に蔬菜《そさい》が残っている紙袋をお絹の前の台俎板《だいまないた》へ抛《ほう》り出した。
 これといって学歴も無い素人出の料理教師が、なにかにつけて理窟を捏《こ》ね芸術家振りたがるのは片腹痛い。だがこの青年が身も魂も食ものに殉じていることは確だ。若い身空で女の襷《たすき》をして漬物樽《つけものだる》の糠《ぬか》加減《かげん》を弄《いじ》っている姿なぞは頼まれてもできる芸ではない。生れ附き飛び離れた食辛棒《くいしんぼう》なのだろうか、それとも意趣があって懸命にこの本能に縋《すが》り通して行こうとしているのか。
 お絹のこころに鼈四郎がいい捨てた言葉の切れ端が蘇《よみがえ》って来る。「世は遷《うつ》り人は代るが、人間の食意地は変らない」「食ものぐらい正直なものはない、うまいかまずいかすぐ判る」「
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