め返さすものである。
幸に、夫妻は招待に応じて来た。
席は加茂川の堤下の知れる家元の茶室を借り受けたものであった。彼は呼び寄せてある指導下の助手の料理人や、給仕の娘たちを指揮して、夫妻の饗宴《きょうえん》にかかった。
彼はさきの夜、檜垣の歓迎会の晩餐《ばんさん》にて、食事のコース中、夫人が何を選み、何を好み食べたか、すっかり見て取っていた。ときどき聞きもした。それは努めてしたのではないが、人の嗜慾《しよく》に対し間諜犬《かんちょうけん》のような嗅覚《きゅうかく》を持つ彼の本能は自ずと働いていた。夫人の食品の好みは専門的に見て、素人なのだか玄人なのだか判らなかった。しかし嗜求する虫の性質はほぼ判った。
鼈四郎は、献立の定慣や和漢洋の種別に関係なく、夫人のこの虫に向って満足さす料理の仕方をした。ああ、そのとき、何という人間に対する哀愛の気持が胸の底から湧《わ》き出たことだろう。そこにはもう勝負の気もなかった。征服慾も、もちろんない。
あの大きな童女のような女をして眼を瞠《みは》らせ、五感から享《う》け入れる人の世の満足以上のものを彼女をして無邪気に味い得しめたなら料理それ自身の手柄だ。自分なんかの存在はどうだってよい。彼はその気持から、夫人が好きだといった、季節外れの蟹《かに》を解したり、一口|蕎麦《そば》を松江風に捏《こ》ねたりして、献立に加えた。ふと幼いとき、夜泣きして、疳《かん》の虫の好く、宝来豆《ほうらいまめ》というものを欲しがったとき老僧の父がとぼとぼと夜半の町へ出て買って来て呉れたときの気持を想《おも》い出した。鼈四郎は捏ね板へ涙の雫《しずく》を落すまいとして顔を反向けた。所詮《しょせん》、料理というものは労《いたわ》りなのであろうか。そして労りごころを十二分に発揮できる料理の相手は、白痴か、子供なのではあるまいか。
しかし鼈四郎は夫人が通客であった場合を予想し、もしその眼で見られても恥しからぬよう、坂本の諸子川の諸子魚《もろこ》とか、鞍馬の山椒皮《からかわ》なども、逸早《いちはや》く取寄せて、食品中に備えた。
夫人は、大事そうに、感謝しながら食べ始めた。「この子附け鱠《なます》の美しいこと」「このえび藷《いも》の肌目《きめ》こまかく煮えてますこと」それから唇にから[#「から」に傍点]揚の油が浮くようになってからは、ただ「おいしいわ」「おいしいわ」というだけで、専心に喰《た》べ進んで行く。鼈四郎は、再び首尾はいかがと張り詰めていたものが食品の皿が片付けられる毎に、ずしんずしんと減って、気の衰えをさえ感ずるのだった。
夫人も健啖《けんたん》だったが、画家の良人はより健啖だった。みな残りなく食べ終り、煎茶茶椀《せんちゃぢゃわん》を取上げながらいった。「ご馳走《ちそう》さまでした。御主人に申すが、この方が、よっぽど、あんたの芸術だね」そして夫人の方に向い、それを皮肉でなく、好感を持つ批評として主人に受取らせるよう夫人の註解《ちゅうかい》した相槌《あいづち》を求めるような笑い方をしていた。夫人も微笑したが、声音《こわね》は生真面目《きまじめ》だった。「わたくしも、警句でなく、ほんとにそう思いますわ。立派な芸術ですわ。」
鼈四郎は図星に嵌《は》めたと思うと同時に、ぎくりとなった。彼はいかにふだん幅広い口を利こうと、衷心では料理より、琴棋書画に位があって、先生と呼ばれるに相応《ふさ》わしい高級の芸種であるとする世間月並の常識を無《な》みしようもない。その高きものを前日は味とされ、今日低きものに於て芸術たることを認められた。天分か、教養か、どちらにしろ、もはや自分の生涯の止めを刺された気がした。この上、何をかいおうぞ。
加茂川は、やや水嵩《みずかさ》増して、ささ濁りの流勢は河原の上を八千岐《やちまた》に分れ下へ落ちて行く、蛇籠《じゃかご》に阻まれる花|芥《あくた》の渚の緑の色取りは昔に変りはないけれども、魚は少くなったかして、漁《あさ》る子供の姿も見えない。堤の芽出し柳の煙れる梢《こずえ》に春なかばの空は晴れみ曇りみしている。
しばらく沈黙の座に聞澄している淙々《そうそう》とした川音は、座をそのままなつかしい国へ押し移す。鼈四郎《べつしろう》は、この川下の対岸に在って大竹原で家棟は隠れ見えないけれども、まさしくこの世に一人残っている母親のことを思い出す。女餓鬼《めがき》の官女のような母親はそこで食味に執しながら、一人息子が何でもよいたつきの業を得て帰って来るのを待っている。しばらく家へは帰らないが、拓本職人の親方の老人は相変らず、小学校の運動会を漁り歩き遊戯をする児童たちのいたいけな姿に老いの迫るを忘れようと努めているであろうか。
鼈四郎は、笑いに紛らしながら、幼時、母子二人の夕餉《ゆうげ》の菜のために、この
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