傲慢《ごうまん》で呑《の》んでかかってから軽蔑《けいべつ》の歯を剥出《むきだ》して、意見を噛《か》み合わす無遠慮な談敵を得て、彼等は渾身《こんしん》の力が出し切れるように思った。その間に狡《ずる》さを働かして耳学問を盗み合い、椀ぎ取る利益も彼等には歓《よろこ》びであった。鼈四郎が東洋趣味の幽玄を高嘯《こうしょう》するに対し、檜垣の主人は西洋趣味の生々《なまなま》しさを誇った。かかるうち知識は交換されて互いの薬籠中《やくろうちゅう》に収められていた。
いつでも意見が一致するのは、芸術至上主義の態度であった。誤って下層階級に生い立たせられたところから自恃《じじ》に相応わしい位置にまで自分を取戻すにはカン[#「カン」に傍点]で攀《よ》じ登れる芸術と称するもの以外には彼等は無いと感じた。彼等は鑑識の高さや広さを誇った。この点ではお互いに許し合った。琴棋書画、それから女、芝居、陶器、食もの、思想に亙《わた》るものまでも、分け距《へだ》てなく味い批評できる彼等をお互いに褒め合った。「僕らは、天才じゃね」「天才じゃねえ」
檜垣の主人は、胸の病持ちであった。彼が独身生活を続けるのも、そこから来るのであったが、情慾は強いかして彼の描く茫漠《ぼうばく》とした油絵にも、雑多に蒐《あつ》められる蒐集品《しゅうしゅうひん》にも何かエロチックの匂《にお》いがあった。痩《や》せて青黒い隈《くま》の多い長身の肉体は内部から慾求するものを充《みた》し得ない悩みにいつも喘《あえ》いでいた。それに較《くら》べると中背ではあるが異常に強壮な身体を持っている鼈四郎はあらゆる官能慾を貪《むさぼ》るに堪えた。ある種の嗜慾《しよく》以外は、貪り能《あと》う飽和点を味い締められるが故に却《かえ》って恬淡《てんたん》になれた。
檜垣の主人は、鼈四郎を連れて、鴨川の夕涼みのゆか[#「ゆか」に傍点]から、宮川町辺の赤黒い行灯《あんどん》のかげに至るまで、上品や下品の遊びに連れて歩るいた。そこでも、味い剰《あま》すがゆえにいつも暗鬱《あんうつ》な未練を残している人間と、飽和に達するがゆえに明色の恬淡に冴《さえ》る人間とは極端な対象を做した。鼈四郎は檜垣の主人の暗鬱な未練に対し、本能の浅間しさと共に本能の深さを感じ、檜垣の主人は鼈四郎の肉体に対して嫉妬《しっと》と驚異を感じた。二人は心秘《こころひそ》かに「あいつ偉い奴じゃ」と互いに舌を巻いた。
起伏表裏がありながら、また最後に認め合うものを持つ二人の交際は、縄のように絡《から》み合い段々その結ぼれを深めた。正常な教養を持つ世間の知識階級に対し、脅威を感ずるが故に、睥睨《へいげい》しようとする職人上りで頭が高い壮年者と青年は自らの孤独な階級に立籠《たてこも》って脅威し来るものを罵《ののし》る快を貪るには一あって二無き相手だった。彼等は毎日のように会わないでは寂しいようになった。
鼈四郎は檜垣の主人に対しては対蹠的《たいしょてき》に、いつも東洋芸術の幽邃高遠《ゆうすいこうえん》を主張して立向う立場に立つのだが、反噬《はんぜい》して来る檜垣の主人の西洋芸術なるものを、その範とするところの名品の複写などで味わされる場合に、躊躇《ちゅうちょ》なく感得されるものがあった。檜垣の主人が持ち帰ったのは主にフランス近代の巨匠のものだったが、本能を許し、官能を許し、享受を許し、肉情さえ許したもののあることは東洋の躾《しつけ》と道徳の間から僅にそれ等を垣間《かいま》見させられていたものに取っては驚きの外無かった。恥も外聞も無い露《む》き出しで、きまりが悪いほどだった。「こいつ等は、まるで素人じゃねえ、」鼈四郎は檜垣の主人に向ってはこうも押えた口を利くようなものの、彼の肉体的感覚は発言者を得たように喝采《かっさい》した。
彼はこの店へ出入りをして食べ増した洋食もうまかったし、主人によっていろいろ話して聴かされた西洋の文化的生活の様式も、便利で新鮮に思われた。
鼈四郎はこれ等の感得と知識をもって、彼の育ちの職場に引返して行った。彼は書画に携る輩《やから》に向ってはデッサンを説き、ゴッホとかセザンヌとかの名を口にした。茶の湯生花の行われる巷《ちまた》に向っては、ティパーティの催しを説き、アペリチーフの功徳を説き、コンポジションとかニュアンスとかいう洋名の術語を口にした。
東洋の諸芸術にも実践上の必需から来る自らなるそれ等にあって、ただ名前と伝統が違っているだけだった。それゆえ、鼈四郎のいうことはこれ等に携る人々にもほぼ察しはつき、心ある者は、なんだ西洋とてそんなものかと嵩《たか》を括《くく》らせはしたが当時モダンの名に於て新味と時代適応性を西洋的なものから採入れようとする一般の風潮は彼の後姿に向っては「葵祭《あおいまつり》の竹の欄干《てすり》で」
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