加えて己れを表示する術《すべ》も覚えた。彼はなりの恰好《かっこう》さえ肩肘《かたひじ》を張ることを心掛けた。彼は手鏡を取出してつくづく自分を見る。そこに映り出る青年があまりに若く美しくして先生と呼ばれるに相応《ふさわ》しい老成した貫禄が無いことを嘆いた。彼はせめて言葉附だけでもいか[#「いか」に傍点]つく、ませ[#「ませ」に傍点]たものにしようと骨を折った。彼の取って付けたような豹変《ひょうへん》の態度に、弱いものは怯《おび》えて敬遠し出した。強いものは反撥《はんぱつ》して罵《ののし》った。「なんだ石刷り職人の癖に」そして先生といって呉れるものは料理人だけだった。
「与四郎は変った」「おかしゅうならはった」というのが風雅社会の一般の評であった。彼の心地に宿った露草の花のようないじらしい恋人もあったのだけれども、この噂《うわさ》に脆《もろ》くも破れて、実を得結ばずに失せた。
若者であって一度この威猛高《いたけだか》な誇張の態度に身を任せたものは二度と沈潜して肌質《きめ》をこまかくするのは余程難しかった。鼈四郎《べつしろう》はこの目的外れの評判が自分のどこの辺から来るものか自分自身に向って知らないとはいい徹せなかった。「学問が無いからだ」この事実は彼に取って最も痛くていまいましい反省だった。そして今更に、悲運な境遇から上の学校へも行けず、秩序立った勉強の課程も踏めなかった自分を憐《あわれ》むのであった。しかしこれを恨みとして、その恨みの根を何処へ持って行くのかとなると、それはまたあまりに多岐に亘《わた》り複雑過ぎて当時の彼には考え切れなかった。嘆くより後《おく》れ走《ば》せでも秘《ひそ》かに学んで追い付くより仕方がない。彼はしきりに書物を読もうと努めた。だが才気とカン[#「カン」に傍点]と苦労で世間のあらましは、すでに結論だけを摘み取ってしまっている彼のような人間にとって、その過程を煩わしく諄《くど》く記述してある書物というものを、どうして迂遠《うえん》で悪丁寧《わるていねい》とより以外のものに思い做《な》されようぞ。彼は頁《ページ》を開くとすぐ眠くなった。それは努めて読んで行くとその索寞《さくばく》さに頭が痛くなって、しきりに喉頭《こうとう》へ味なるものが恋い慕われた。彼は美味な食物を漁《あさ》りに立上ってしまった。
結局、彼は遣《や》り慣れた眼学問、耳学問を長じさせて行くより仕方なかった。そしていま迄、下手《したで》に謙遜《けんそん》に学び取っていた仕方は今度からは、争い食ってかかる紛擾《ふんじょう》の間に相手から※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎ取る仕方に方法を替えたに過ぎなかった。それほどまでにして彼は尊敬なるものを贏《か》ち得たかったのであろうか。然《しか》り。彼は彼が食味に於て意識的に人生の息抜きを見出す以前は、実に先生といわれる敬称は彼に取って恋人以上の魅力を持っていたのだった。彼はこの仕方によって数多の旧知己をば失ったが、僅《わず》かばかりの変りものの知遇者を得た。世間には啀《いが》み合う鑼《どら》、捩《ねじ》り合う銅※[#「金+祓のつくり」、第3水準1−93−6]《にょうばち》のような騒々しいものを混えることに於て、却《かえ》って知音や友情が通じられる支那楽のような交際も無いことはない。鼈四郎が向き嵌《はま》って行ったのはそういう苦労|胼胝《たこ》で心の感膜が厚くなっている年長の連中であった。
その頃、京極でモダンな洋食店のメーゾン檜垣の主人もその一人であった。このアメリカ帰りの料理人は、妙に芸術や芸術家の生活に渇仰をもっていて、店の監督の暇には油画を描いていた。寝泊りする自分の室は画室のようにしていた。彼は客の誰彼を掴《つかま》えてはニューヨークの文士村《グリンウィッチビレージ》の話をした。巴里《パリ》の芸術街を真似《まね》ようとするこの街はアメリカ人気質と、憧憬による誇張によって異様で刺激的なものがあった。主人はそれを語るのに使徒のような情熱をもってした。店の施設にもできるだけ応用した。酒神《バッカス》の祭の夕。青蝋燭《あおろうそく》の部屋、新しいものに牽《ひ》かれる青年や、若い芸術家がこの店に集ったことは見易き道理である。この古都には若い人々の肺には重苦しくて寂寥《せきりょう》だけの空気があった。これを撥《は》ね除《の》け攪《か》き壊すには極端な反撥《はんぱつ》が要った。それ故、一般に東京のモダンより、上方のモダンの方が調子外れで薬が強いとされていた。
鼈四郎はこの店に入浸るようになった。お互いに基礎知識を欠く弱味を見透すが故に、お互いに吐き合う気焔《きえん》も圧迫感を伴わなかった。飄々《ひょうひょう》とカン[#「カン」に傍点]のまま雲に上り空に架することができた。立会いに相手を
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