の足音が地車でも続いて通っているよう絶えずとどろと鳴っている。その控室の方に当っては、もはや、午後の演奏の支度にかかっているらしく、尺八に対して音締めを直している琴や胡弓《こきゅう》の音が、音のこぼれもののように聞えて来る。間に混って盲人の鼻詰り声、娘たちの若い笑い声。
若者の鼈四郎は、こういう景致や物音に遠巻きされながら、それに煩わされず、逃れて一人うとうとする束《つか》の間《ま》を楽しいものに思い做《な》した。腹に満ちた咀嚼物《そしゃくぶつ》は陽のあたためを受けて滋味は油のように溶け骨、肉を潤し剰《あま》り今や身体の全面にまでにじみ出して来るのを艶《つや》やかに感ずる。金目がかかり、値打ちのある肉体になったように感ずる。心の底に押籠《おしこ》められながら焦々した怒ろしい想《おも》いはこの豊潤な肉体に対し、いよいよその豊潤を刺激して引立てる内部からの香辛料になったような気がする。その快さ甘くときめかす匂い、芍薬畑《しゃくやくばたけ》が庭のどこかにあるらしい。
古都の空は浅葱色《あさぎいろ》に晴れ渡っている。和み合う睫《まつげ》の間にか、充《み》ち足りた胸の中にか白雲の一浮きが軽く渡って行く。その一浮きは同時にうたた寝の夢の中にも通い、濡《ぬ》れ色の白鳥となって翼に乗せて過ぎる。はつ夏の哀愁。「与四郎さん、こんなとこで寝てなはる。用事あるんやわ、もう起きていなあ、」鼻の尖《さき》を摘まれる。美しい年増夫人のやわらかくしなやかな指。
鼈四郎はだんだん家へ帰らなくなった。貧寒な拓本職人の家で、女餓鬼《めがき》の官女のような母を相手にみじめな暮しをするより、若い女のいる派手で賑《にぎや》かな会席を渡り歩るいてる方がその日その日を面白く糊塗《こと》できて気持よかった。何か一筋、心のしん[#「しん」に傍点]になる確《しっか》りした考え。何か一業、人に優れて身の立つような職能を捉《とら》えないでは生きて行くに危いという不安は、殊にあの心の底に伏っている焦々《いらいら》した怒ろしい想いに煽《あお》られると、居ても立ってもいられない悩みの焔《ほのお》となって彼を焼くのであるが、その焦熱を感ずれば感ずるほど、彼はそれをまわりで擦《こす》って掻《か》き落すよう、いよいよ雑多と変化の世界へ紛れ込んで行くのであった。彼はこの間に持って生れた器用さから、趣味の技芸なら大概のものを田舎初段程度にこなす腕を自然に習い覚えた。彼は調法な与四郎となった。どこの師匠の家でも彼を歓迎した。棋院では初心の客の相手役になってやるし、琴の家では琴師を頼まないでも彼によって絃《げん》の緩みは締められた。生花の家でお嬢さんたちのための花の下慥え、茶の湯の家ではまたお嬢さんや夫人たちのための点茶や懐石のよき相談相手だった。拓本職人は石刷りを法帖《ほうじょう》に仕立てる表具師のようなこともやれば、石刷りを版木に模刻して印刷をする彫版師のような仕事もした。そこから自ずから彼は表具もやれば刀を採って、木彫|篆刻《てんこく》の業もした。字は宋拓を見よう見真似《みまね》に書いた。画は彼が最得意とするところで、ひょっとしたら、これ一途《いちず》に身を立てて行こうかとさえ思うときがあった。
頼めば何でも間に合わして呉《く》れる。こんな調法人をどこで歓迎しないところがあろうか。
彼は紛れるともなく、その日その日の憂さを忘れて渡り歩るいた。母は鼈四郎が勉強のため世間に知識を漁《あさ》っていて今に何か掴《つか》んで来るものと思い込んでるので呑込《のみこ》み顔で放って置いたし、拓本職人の老爺《ろうや》は仕事の手が欠けたのをこぼしこぼし、しかし叱言《こごと》というほどの叱言はいわなかった。
師匠連や有力な弟子たちは彼を取巻のようにして瓢亭・俵やをはじめ市中の名料理へ飲食に連れて行った。彼は美食に事欠かぬのみならず、天稟《てんぴん》から、料理の秘奥を感取った。
そうしているうち、ふと鼈四郎に気が付いて来たことがあった。このように諸方で歓迎されながら彼は未だ嘗《かつ》て尊敬というものをされたことがない。大寺に生れ、幼時だけにしろ、総領息子という格に立てられた経験のある、旧舗《しにせ》の娘として母の持てる気位を伝えているらしい彼の持前は頭の高い男なのであった。それがただ調法の与四郎で扱い済されるだけでは口惜しいものがあった。彼の心の底に伏っていつも焦々する怒ろしい想いもどうやら一半はそこから起るらしく思われて来た。どうかして先生と呼ばれてみたい。
人中に揉《も》まれて臆《おく》し心《ごころ》はほとんど除かれている彼に、この衷心から頭を擡《もた》げて来た新しい慾望は、更に積極へと彼に拍車をかけた。彼は高飛車に人をこなし付ける手を覚え、軽蔑《けいべつ》して鼻であしろう手を覚えた。何事にも批判を
前へ
次へ
全22ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング