。季節季節によって、鮴《ごり》、川鯊《かわはぜ》、鮠《はや》、雨降り揚句には鮒や鰻も浮出てとんだ獲ものもあった。こちらの河原には近所の子供の一群がすでに漁《あさ》り騒いでいる。むこうの土手では摘草の一家族が水ぎわまでも摘み下りている。鞍馬《くらま》へ岐《わか》れ路の堤の辺には日傘をさした人影も増えている。境遇に負けて人臆《ひとおく》れのする少年であった鼈四郎は、これ等の人気《ひとけ》を避けて、土手の屈曲の影になる川の枝流れに、芽出し柳の参差《しんし》を盾に、姿を隠すようにして漁った。すみれ草が甘く匂《にお》う。糺《ただす》の森《もり》がぼーっと霞んで見えなくなる。おや自分は泣いてるなと思って眼瞼《まぶた》を閉じてみると、雫《しずく》の玉がブリキ屑《くず》に落ちたかしてぽとんという音がした。器用な彼はそれでも少しの間に一握りほどの雑魚を漁り得る。持って帰ると母親はそれを巧に煮て、春先の夕暮のうす明りで他人の家の留守を預りながら母子二人だけの夕餉《ゆうげ》をしたためるのであった。
母親は身の上の素性を息子に語るのを好まなかった。ただ彼女は食べ意地だけは張っていて、朝からでも少しのおなまぐさ[#「なまぐさ」に傍点]が無ければ飯の箸《はし》は取れなかった。それの言訳のように彼女はこういった。「なんしい、食べ辛棒の土地で気儘放題《きままほうだい》に育てられたもんやて!」
鼈四郎は母親の素性を僅《わずか》に他人から聞き貯めることが出来た。大阪|船場《せんば》目ぬきの場所にある旧舗《しにせ》の主人で鼈四郎の父へ深く帰依《きえ》していた信徒があった。不思議な不幸続きで、店は潰《つぶ》れ娘一人を残して自分も死病にかかった。鼈四郎の父はそれまで不得手ながら金銭上の事に関ってまでいろいろ面倒を見てやったのだがついにその甲斐《かい》もなかった。しかし、すべてを過去の罪障のなす業と諦《あきら》めた病主人は、罪障消滅のためにも、一つは永年の恩義に酬《むく》ゆるため、妻を失ってしばらく鰥暮《やもめぐら》しでいた鼈四郎《べつしろう》の父へ、せめて身の周りの世話でもさせたいと、娘を父の寺へ上せて身罷《みまか》ったという。他の事情は語らない母親も「お罪障消滅のため寺方に上った身が、食べ慾ぐらい断ち切れんで、ほんまに済まんと思うが、やっぱりお罪障の残りがあるかして、こればかりはしようもない」この述懐だけは亦ときどき口に洩《もら》しながら、最小限度のつもりにしろ、食べもの漁《あさ》りはやめなかった。
少青年の頃おいになって鼈四郎は、諸方の風雅の莚《むしろ》の手伝いに頼まれ出した。市民一般に趣味人をもって任ずるこの古都には、いわゆる琴棋書画の会が多かった。はじめ拓本職人の老人が出入りの骨董商《こっとうしょう》に展観の会があるのを老人に代って手伝いに出たのがきっかけとなり、あちらこちらより頼まれるようになった。才はじけた性質を人臆《ひとおく》しする性質が暈《ぼか》しをかけている若者は何か人目につくものがあった。薄皮仕立で桜色の皮膚は下膨《しもぶく》れの顔から胸鼈へかけて嫩葉《わかば》のような匂《にお》いと潤いを持っていた。それが拓本老職人の古風な着物や袴《はかま》を仕立て直した衣服を身につけて座を斡旋《あっせん》するさまも趣味人の間には好もしかった。人々は戯れに千の与四郎、――茶祖の利休の幼名をもって彼を呼ぶようになった。利休の少年時が果して彼のように美貌《びぼう》であったか判らないが、少くとも利休が与四郎時代秋の庭を掃き浄《きよ》めたのち、あらためて一握りの紅葉をもって庭上に撒《ま》き散らしたという利休の趣味性の早熟を物語る逸話から聯想《れんそう》して来る与四郎は、彼のような美少年でなければならなかった。与えられたこの戯名を彼も諾《あまな》い受け寧《むし》ろ少からぬ誇りをもって自称するようにさえなった。
洒落《しゃ》れた[#「洒落《しゃ》れた」は底本では「洒落《しゃれ》れた」]お弁当が食べられ、なにがしかずつ心付けの銭さえ貰えるこの手伝いの役は彼を悦《よろこ》ばした。そのお弁当を二つも貰って食べ抹茶も一服よばれたのち、しばらくの休憩をとるため、座敷に張り廻《めぐ》らした紅白だんだらの幔幕《まんまく》を向うへ弾《は》ね潜って出る。そこは庭に沿った椽側《えんがわ》であった。陽《ひ》はさんさんと照り輝いて満庭の青葉若葉から陽の雫《しずく》が滴っているようである。椽も遺憾なく照らし暖められている。彼はその椽に大の字なりに寝て満腹の腹を撫《な》でさすりながらうとうとしかける。智恩院聖護院の昼鐘が、まだ鳴り止まない。夏霞《なつがすみ》棚引きかけ、眼を細めてでもいるような和《なご》み方の東山三十六峯。ここの椽に人影はない。しかし別書院の控室の間から演奏場へ通ずる中廊下には人
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