て性の軽いものにした。生が「あれは、まず、あれだけのもの」としたなら、死もまた「これは、まず、これだけのもの」に過ぎなかった。彼は衒学的《げんがくてき》な口を利くことを好むが、彼には深い思惟《しい》の素養も脳力も無い筈《はず》である。
 これは全く押し詰められた体験の感じから来たもので、それだけにまた、動かぬものであった。彼は少青年の頃まで、拓本の職工をしていたことがあるが、その拓本中に往々出て来る死生一如とか、人生一|泡滓《ほうさい》とかいう文字をこの感じに於て解していた。それ故にこそ、とどのつまりは「うまいものでも食って」ということになった。世間に肩肘《かたひじ》張って暮すのも左様大儀な芝居でもなかった。
 だが、今宵《こよい》の闇の深さ、粘っこさ、それはなかなか自分の感じ捉えた死などいう潔く諦めよいものとは違っていて、不思議な力に充《み》ちている。絶望の空虚と、残忍な愛とが一つになっていて、捉えたものは嘗《な》め溶し溶し尽きたら、また、原形に生み戻し、また嘗め溶す作業を永遠に、繰返さでは満足しない執拗《しつよう》さを持っている。こんな力が世の中に在るのか。鼈四郎は、今迄、いろいろの食品を貪《むさぼ》り味ってみて、一つの食品というものには、意志と力があってかくなりわい出たもののように感じていた。押拡《おしひろ》げて食品以外の事物にも、何かの種類の意味で味いというものを帯びている以上、それがあるように思われている。だが、今宵の闇の味い! これほど無窮無限と繰返しを象徴しているものは無かった。人間が虫の好く好物を食べても食べても食べ飽きた気持がしたことはない。あの虫の好きと一路通ずるものがありはしないか。
 これは天地の食慾とでもいうものではないかしらん、これに較《くら》べると人間の食慾なんて高が知れている。
「しまった」と彼は呟《つぶや》いてみた。
 彼は久振りで、自分の嫌な過去の生い立ちを点検してみた。


 京都の由緒ある大きな寺のひとり子に生れ幼くして父を失った。母親は内縁の若い後妻で入籍して無かったし、寺には寺で法縁上の紛擾《ふんじょう》があり、寺の後董《ごとう》は思いがけない他所《よそ》の方から来てしまった。親子のものはほとんど裸同様で寺を追出される形となった。これみな恬澹《てんたん》な名僧といわれた父親の世務をうるさがる性癖から来た結果だが、母親はどういうものか父を恨まなかった。「なにしろこどものような方だったから罪はない」そしてたった一つの遺言ともいうべき彼が誕生したときいったという父の言葉を伝えた。「この子がもし物ごころがつく時分わしも老齢《とし》じゃから死んどるかも知れん。それで苦労して、なんでこんな苦しい娑婆《しゃば》に頼みもせんのに生み付けたのだと親を恨むかも知れん。だがそのときはいってやりなさい。こっちとて同じことだ、何でも頼みもせんのに親に苦労をかけるようなこの苦しい娑婆に生れて出て来なすったのだお互いさまだ、と」この言葉はとても薄情にとれた、しかし薄情だけでは片付けられない妙な響が鼈四郎の心に残された。
 はじめは寺の弟子たちも故師の遺族に恩を返すため順番にめいめいの持寺に引取って世話をした。しかしそれは永く続かなかった。どの寺にも寄食人《かかりゅうど》を息詰らす家族というものがあった。最後に厄介になったのは父の碁敵であった拓本職人の老人の家だった。貧しいが鰥暮《やもめぐら》しなので気は楽だった。母親は老人の家の煮炊き洗濯の面倒を見てやり、彼はちょうど高等小学も卒業したので老人の元に法帖《ほうじょう》造りの職人として仕込まれることになった。老人は変り者だった、碁を打ちに出るときは数日も家に帰らないが、それよりも春秋の頃おい小学校の運動会が始り出すと、彼はほとんど毎日家に居なかった。京都の市中や近郊で催されるそれを漁《あさ》り尋ね見物して来るのだった。「今日の××小学校の遊戯はよく手が揃《そろ》った」とか、「今日の△△小学校の駈足《かけあし》競争で、今迄にない早い足の子がいた」とか噂《うわさ》して悦《よろこ》んでいた。
 その留守の間、彼は糊臭《のりくさ》い仕事場で、法帖作りをやっているのだが、墨色に多少の変化こそあれ蝉翅搨《せんしとう》といったところで、烏金搨《うきんとう》といったところで再び生物の上には戻って来ぬ過去そのものを色にしたような非情な黒に過ぎない。その黒へもって行って寒白い空閑を抜いて浮出す拓本の字劃《じかく》というものは少年の鼈四郎にとってまたあまりに寂しいものであった。「雨降りあとじゃ、川へいて、雑魚《ざこ》なと、取って来なはれ、あんじょ、おいしゅう煮て、食べまひょ」継ものをしていた母親がいった。鼈四郎は笊《ざる》を持って堤を越え川へ下りて行く。
 その頃まだ加茂川にも小魚がいた
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