くなるでせう。」
父と兄は苦もなく同意した。それほどこの若い画家は都会文化に灰汁《あく》抜けて現実性の若い者同志間の危険はなかつた。
美貌《びぼう》の直助は美貌の客をたちまち贔屓《ひいき》にした。若い画家が訪ねて来ると、「えへん/\」とうれしさうに笑ひながら、饗応《きょうおう》の手伝をした。かの女が画家と並んで家を出て行くのを見ると、一層「えへん/\」とうれしさうに笑つて見送つた。
「向ふの丘へ行つて異人館の裏庭から、こちらを眺めなすつたらいゝ。相模《さがみ》の連山から富士までが見えます。」
二人がたまには彼を誘つても、彼はどうしてもついて来なかつた。彼は川が持場であるといつた強情さで拒絶した。「いや、わたしは晩のご馳走《ちそう》のさかなを少し探しときませう。」
異人館の丘の崖端《がけはし》から川を見下ろすと、昼間見る川は賑《にぎや》かだつた。河原の砂利《じゃり》に低く葭簾《よしず》の屋根を並べて、遊び茶屋が出来てゐた。その軒提燈《のきぢょうちん》と同じ赤い提燈をゆらめかして、鮎漁《あゆと》りの扁長《ひらなが》い船が鼓《つづみ》を鳴らして瀬を上下してゐた。鷦鷯《みそさざい》のやうに敏捷に身を飜《ひるがえ》して、楊柳《かわやなぎ》や月見草の叢《くさむら》を潜り、魚を漁つてゐる漁師たちに訪ね合はしてゐる直助の紺《こん》の姿と確《しっ》かりした声が、すぐ真下の矢草の青い河原に見出《みいだ》された。
「これんぱかしの若鮎はないかい。丸ごとフライにするのだ。」
日が陰《かげ》つたり照つたりして河原道と川波の筋を金色にしたりした。
手頃な鮎が見付からぬかして、浅い瀬を伝ひ/\、直助の姿はいつか、寂しい川上へ薄らいで行つた。渚《なぎさ》の鳥の影に紛れてしまつた。
「素焼の壺《つぼ》と、素焼の壺と並んだといふやうな心情の交渉が世の中にないものでせうか。」
画家は云つた。
「芭蕉《ばしょう》に、逝《ゆ》く春や鳥|啼《な》き魚は目に涙といふ句がありますが、何だか超人間の悲愁な感じがしますわ。」
かの女も画家も、意識下に直助によつて動揺させられるものがあり、二人ともめい/\勝手にあらぬことを云つてるやうで、しかも、心肝《しんかん》を吐露してる不思議な世界を心に踏みつつ丘の坂道を下つた。かの女の足取りは、ほぼ健康を恢復《かいふく》して確《しっ》かりして来た。
かの女は
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