川
岡本かの子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)白歯《しらは》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)白野|薔薇《ばら》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)はら/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
かの女の耳のほとりに川が一筋流れてゐる。まだ嘘をついたことのない白歯《しらは》のいろのさざ波を立てゝ、かの女の耳のほとりに一筋の川が流れてゐる。星が、白梅の花を浮かせた様に、或《ある》夜はそのさざ波に落ちるのである。月が悲しげに砕けて捲《ま》かれる。或る夜はまた、もの思はしげに青みがかつた白い小石が、薄月夜《うすづきよ》の川底にずつと姿をひそめてゐるのが覗《のぞ》かれる。
朝の川波は蕭条《しょうじょう》たるいろ[#「いろ」に傍点]だ。一夜の眠《ねむり》から覚めたいろ[#「いろ」に傍点]だ。冬は寒風が辛《つら》くあたる。をとめのやうにさざ波は泣く。よしきり[#「よしきり」に傍点]が何処《どこ》かで羽音をたてる。さざ波は耳を傾け、いくらか流れの足をゆるめたりする。猟師の筒音が聞える。この川の近くに、小鳥の居る森があるのだ。
昼は少しねむたげに、疲れて甘えた波の流れだ。水は鉛色に澄んで他愛もない川藻の流れ、手を入れゝばぬるさうだが、夕方から時雨《しぐ》れて来れば、しよげ返る波は、笹《ささ》の葉に霰《あられ》がまろぶあの淋《さび》しい音を立てる波ではあるが、たとへいつがいつでも此《こ》の川の流れの基調は、さらさらと僻《ひが》まず、あせらず、凝滞せぬ素直なかの女の命の流れと共に絶えず、かの女の耳のほとりを流れてゐる。かの女の川への絶えざるあこがれ、思慕、追憶が、かの女の耳のほとりへ超現実の川の流れを絶えず一筋流してゐる。
かの女は水の浄《きよ》らかな美しい河の畔《ほとり》でをとめとなつた女である。其《そ》の川の水源は甲斐《かい》か秩父《ちちぶ》か、地理に晦《くら》いをとめの頃のかの女は知らなかつた。たゞ水源は水晶を産し、水は白水晶や紫水晶から滲《にじ》み出るものと思つて居た。春はその水晶山へ、はら
次へ
全11ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング