うとしているのだ。畜生ッ。生ける女によって描こうとした美しい人生のまんだら[#「まんだら」に傍点]をついに引裂こうとしている。畜生ッ。畜生ッ。家霊の奴め」
 わたくしの肩は逸作の両手までがかかって力強く揺るのを感じた。
「だが、ここに、ただ一筋の道はある。おまえは、決して臆《おく》してはならない。負けてはならないぞ。そしてこの重荷を届けるべきところにまで驀地《まっしぐら》に届けることだ。わき見をしては却《かえ》って重荷に押し潰《つぶ》されて危ないぞ。家霊は言ってるのだ――わたくしを若《も》しわたくしの望む程度まで表現して下さったなら、わたくしは三つ指突いてあなた方にお叩頭《じぎ》します。あとは永くあなた方の実家をもあなた方の御子孫をも護《まも》りましょう――と。いいか。苦悩はどうせこの作業には附ものだ。俺も出来るだけ分担してやるけれどお前自身決して逃れてはならないぞ。苦悩を突き詰めた先こそ疑いもない美だ。そしてお前の一族の家霊くらいおしゃれ[#「おしゃれ」に傍点]で、美しいものの好きな奴はないのだから――」
 読書もそう好きでなし、思索も面倒臭がりやの逸作にどうして、こんないのち[#「いのち」に傍点]の作略に関する言葉が閃《ひら》めき出るのであろうか。うつろの人には却っていのち[#「いのち」に傍点]の素振りが感じられるものなのだろうか。わたくしはそれにも少し怖《おそ》れを感じたけれども、眼の前の現実に襲って来た無形の大磐石のような圧迫にはなお恐怖を覚えて慄《ふる》え上った。思わず逸作に取縋《とりすが》って家の中で逸作を呼び慣《なら》わしの言葉の、
「パパウ! パパウ!」
 と泣き喚く顔を懸命に逸作の懐へにじり込ませていた。
「コップを探してましたもんでね、どうも遅くなりました」と、言って盆に水を運んで来た茶店の老婆は、逸作が水を飲み干す間、二人の姿をと見こう見しながら、
「そうですとも、娘さんとお婿さんとでたんと泣いてお上げなさいましよ。それが何よりの親御さんへのお供養ですよ」
 と、さもしたり[#「したり」に傍点]顔に言った。
 他のときと場合ならわたくしたちの所作は芝居|染《じ》みていて、随分妙なものに受取られただろうが、しかし場合が場合なので、棺輿の担ぎ手も、親戚《しんせき》も、葬列の人も、みな茶店の老婆と同じ心らしく、子供たち以外は遠慮勝ちにわたくしたちの傍を離れていて呉《く》れて、わたくしたちの悲歌劇の一所作が滞りなく演じ終るまで待っていて呉れた。そして逸作が水を飲み終えてコップを盆に返すのをきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に葬列は寺へ向って動き出した。
 菩提寺《ぼだいじ》の寺は、町の本陣の位置に在るわたくしの実家の殆《ほとん》ど筋向うである。あまり近い距離なので、葬列は町を一巡りしたという理由もあるが、兎《と》に角《かく》、わたくしたちは寺の葬儀場へ辿《たど》りついた。
 わたくしは葬儀場の光景なぞ今更、珍らしそうに書くまい。ただ、葬儀が営まれ行く間に久し振りに眺めた本尊の厨子《ずし》の脇段《わきだん》に幾つか並べられている実家の代々の位牌《いはい》に就《つ》いて、こども[#「こども」に傍点]のときから目上の人たちに聞かされつけた由緒の興味あるものだけを少しく述べて置こうと思う。
 権之丞というのは近世、実家の中興の祖である。その財力と才幹は江戸諸大名の藩政を動かすに足りる力があったけれども身分は帯刀御免の士分に過ぎない。それすら彼は抑下《よくげ》して一生、草鞋穿《わらじば》きで駕籠《かご》へも乗らなかった。
 その娘二人の位牌《いはい》がある。絶世の美人だったが姉妹とも躄《あしなえ》だった。権之丞は、構内奥深く別構へを作り、秘《ひそ》かに姉妹を茲《ここ》に隠して朝夕あわれな娘たちの身の上を果敢《はか》なみに訪れた。
 伊太郎という三四代前の当主がある。幕末に際し、実家に遁入《とんにゅう》して匿《かく》まわれた多くの幕士の中の一人だが、美男なので実家の娘に想《おも》われ、結婚して当主に直った人であった。生来気の弱い人らしく、畢生の望みはどうかして一度、声を出して唄《うた》を謡ってみたいということであった。或る人が彼に、多摩川の河原へ出て人のいないところで謡いなさいと進言した。伊太郎は勧めに従ってひとり河原に出てはみたものの、ついに口からよう謡い出ずに戻って来た。
 蔵はいろは四十八蔵あり、三四里の間にわが土地を踏まずには他出できなかったという。天保銭は置き剰《あま》って縄に繋いで棟々の床下に埋めた。こういう逞《たくま》しい物質力を持ちながら、何とその持主の人間たちに憐《あわ》れにも蝕《むしば》まれた影の多いことよ。そしてその蝕まれるものの、また何と美しいものに縁があることよ。
 逸作はいみじくも指摘した「おまえの家の家霊はおしゃれ[#「おしゃれ」に傍点]で美しいもの好きだ」と。そしてまた言った。「その美なるものは、苦悩を突き詰めることによってのみその本体は掴《つか》み得られるのだ」と。ああ、わたくしは果してそれに堪え得る女であろうか。
 ここに一つ、おかのさんと呼ばれている位牌がある。わたくしたちのいま葬儀しつつある父と、その先代との間に家系も絶えんとし、家運も傾きかけた間一髪の際に、族中より選み出されて危きを既倒に廻《まわ》し止めた女丈夫だという。わたくしの名のかの子は、この女丈夫を記念する為めにつけたのだという。しかも何と、その女丈夫を記念するには、相応《ふさ》わしからぬわたくしの性格の非女丈夫的なことよ。わたくしは物心づいてからこの位牌をみると、いつもこの名を愛しその人を尊敬しつつも、わたくし自らを苦笑しなければならなかった。


 読経は進んで行った。会葬者は、座敷にも椽《えん》にも並み余り、本堂の周囲の土に立っている。わたくしは会葬者中の親族席を見廻す。そしてわたくしは茲にも表現されずして鬱屈《うっくつ》している一族の家霊を実物証明によって見出すのであった。
 北は東京近郊の板橋かけて、南は相模厚木辺まで蔓延《まんえん》していて、その土地土地では旧家であり豪家である実家の親族の代表者は悉《ことごと》く集っている。
 その中には年々巨万の地代を挙げながら、代々の慣習によって中学卒業程度で家督を護《まも》らせられている壮年者もある。
 横浜開港時代に土地開発に力を尽し、儒学と俳諧にも深い造詣《ぞうけい》を持ちながら一向世に知られず、その子としてただ老獪《ろうかい》の一手だけを処世の金科玉条として資産を増殖さしている老爺《ろうや》もある。
 蓄妾《ちくしょう》に精力をスポイルして家産の安全を図っている地方紳士もある。
 だが、やはり、ここにも美に関るものは附いて離れなかった。在々所々のそれ等の家に何々小町とか何々乙姫とか呼ばれる娘は随分生れた。しかし、それが縁付くとなると、草莽《そうもう》の中に鄙《ひな》び、多産に疲れ、ただどこそこのお婆さんの名に於ていつの間にか生を消して行く。それはいかに、美しいもの好きの家霊をして力を落させ歎《なげ》かしめたことであろう。


 葬儀は済んだ。父に身近かの肉親親類たちだけが棺に付添うて墓地に向った。わたくしはここの場面をも悉《くわ》しい説明することを省く。わたくしは、ただ父の遺骸《いがい》を埋め終ってから、逸作がわたくしの母の墓前に永い間|額《ぬか》づき合掌して何事かを語るが如く祈るが如くしつつあるのを見て胸が熱くなるのを感じたことを記す。
 母はわたくしを十四五の歳になるまで、この子はいじらしいところが退《の》かぬ子だといって抱き寝をして呉《く》れた。そして逸作はこの母により逸早く許しを与えられることによってわたくしを懐にし得た。放蕩児《ほうとうじ》の名を冒《おか》しても母がその最愛の長女を与えたことを逸作はどんなに徳としたことであろう。わたくしはただ裸子のように世の中のたつきも知らず懐より懐へ乳房を探るようにして移って来た。その生みの母と、育ての父のような逸作と、二人はいまわたくしに就《つい》て何事を語りつつあるのであろうか。
 わたくしはその間に、妹のわたくしを偏愛して男の気ならば友人の手紙さえ取上げて見せなかった文学熱心の兄の墓に詣《もう》で、一人の弟と一人の妹の墓にも花と香花《こうげ》をわけた。
 その弟は、学校を出て船に努めるようになり、乗船中、海の色の恍惚《こうこつ》に牽《ひ》かれて、海の底に趨《はし》った。
 その妹は、たまさか姉に遇《あ》うても涙よりしか懐かしさを語り得ないような内気な娘であった。生よりも死の床を幾倍か身に相応《ふさ》わしいものに思い做《な》して、うれしそうに病み死んだ。
 風は止んだ。多摩川の川づらには狭霧《さぎり》が立ち籠《こ》め生あたたかくたそがれて来た。ほろほろと散る墓畔の桜。わたくしは逸作の腕に支えられながら、弟の医者にちょっと脈を検められ、「生きの身の」と、歌の頭字の五文字を胸に思い泛《うか》べただけで急いで帰宅の俥《くるま》に乗り込んだだけを記して、早くこの苦渋で憂鬱《ゆううつ》な場面の記述を切上げよう。


「奥さまのかの子さーん」
 夏もさ中にかかりながらわたくしは何となく気鬱《きうつ》加減で書斎に床は敷かず枕《まくら》だけつけて横になっていた。わたくしにしては珍らしいことであった。その枕の耳へ玄関からこの声が聞えて来た。お雛妓《しゃく》のかの子であることが直《す》ぐ思い出された。わたくしは起き上って、急いで玄関へ下りてみた。お雛妓のかの子は、わたくしを見ると老婢《ろうひ》に、
「それ、ごらんなさい。奥さまはいらっしゃるじゃありませんか。嘘《うそ》つき」
 と、小さい顎《あご》を出し、老婢がこれに対し何かあらがう様子を尻眼《しりめ》にかけながら、
「あがってもいいでしょう。ちょっと寄ったのよ」
 とわたくしに言った。
 わたくしは老婢が見ず知らずの客を断るのは家の慣《なら》わしで咎《とが》め立てするものではありませんと雛妓を軽くたしなめてから、「さあさあ」といってかの子を二階のわたくしの書斎へ導いた。
 雛妓は席へつくと、お土産《みやげ》といって折箱入りの新橋小萩堂の粟餅《あわもち》を差し出した。
「もっとも、これ、園遊会の貰いものなんだけれど、お土産に融通しちまうわ」
 そういって、まずわたくしの笑いを誘い出した。わたくしが、まあ綺麗《きれい》ねと言って例の女の癖の雛妓の着物の袖《そで》を手に取ってうち見返す間に雛妓はきょう、ここから直ぐ斜裏のK――伯爵家に園遊会があって、その家へ出入りの谷中住いの画家に頼まれて、姐《ねえ》さん株や同僚七八名と手伝いに行ったことを述べ、帰りにその門前で訊《き》くと奥さまの家はすぐ近くだというので、急に来たくなり、仲間に訣《わか》れて寄ったのだと話した。
「夏の最中の園遊会なんて野暮でしょう。けど、何かの記念日なんだから仕方ないんですって。幹事さんの中には冬のモーニングを着て、汗だくでふうふう言いながらビールを飲んでた方もあったわ」
 お雛妓らしい観察を縷々《るる》述べ始めた。わたくしがかの女に何か御馳走《ごちそう》の望みはないかと訊くと、
「では、あの、ざくざく掻《か》いた氷水を。ただ[#「ただ」に傍点]水《すい》というのよ。もし、ご近所にあったら、ほんとに済みません」
 と俄《にわか》に小心になってねだった。
 わたくしの実家の父が歿《な》くなってから四月は経《た》つ。わたくしのこころは、葬儀以後、三十五日、四十九日、百ヶ日と過ぐるにつれ、薄らぐともなく歎きは薄らいで行った。何といっても七十二という高齢は、訣れを諦《あきら》め易くしたし、それと、生前、わたくしが多少なりとも世間に現している歌の業績を父は無意識にもせよ家霊の表現の一つに数えて、わたくしは知らなかったにもせよ日頃慰んでいて呉れたということは、いよいよわたくしをして気持を諦め易くした。勿論《もちろん》わたくしに取ってはそういう性質の仕事の歌ではなかったのだけれども。それでも、まあ無いよりはいい。
 で、そ
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