らでもじかに書いて下さいましょうにと申しましたら、いや、俺はあの娘には何にも言えない。あの娘がひとりであれだけになったのだから、この家のことは何一つ頼めない。ただ、蔭で有難いと思っているだけで充分だ」と洩《もら》したそうである。
 こんな事柄さえ次々に想《おも》い出されて来た。食品を運んで来る女中は、わたくしたち中年前後の夫妻が何か内輪揉《うちわも》めで愁歎場《しゅうたんば》を演じてるとでも思ったのか、なるべくわたくしに眼をつけないようにして襖《ふすま》からの出入りの足を急いだ。
 七時のときの鐘よりは八時の鐘は、わたくしの耳に慣れて来た。いまは耳に手を当てるまでもなく静に聞き過された。一枚開けた障子の隙《すき》から、漆のような黒い水に、枯れ蓮《はす》の茎や葉が一層くろぐろと水面に伏さっているのが窺《のぞ》かれる。その起伏のさまは、伊香保の湯宿の高い裏欄干《うららんかん》から上《かみ》つ毛野《けの》、下《しも》つ毛野《けの》に蟠《わだかま》る連山の頂上を眺め渡すようだった。そのはろばろと眺め渡して行く起伏の末になると、枯蓮の枯葉は少くなり、ただ撓《たわ》み曲った茎だけが、水上の形さなが
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