属していた。嘗て魔界の一ときを経歴したあと、芝の白金でも、今里でも、隠逸の形を取った崖下《がけした》であるとか一樹の蔭であるとかいう位置の家を選んだ。洞窟を出た人が急に陽の目に当るときは眼を害する惧《おそ》れから、手で額上を覆っているという心理に似たものがあった。今ここの青山南町の家は、もはや、心理の上にその余翳《よえい》は除《の》けたようなものの、まだ住いを華やがす気持にはならなかった。
 それと逸作は、この数年来、わたくしを後援し出した伯母と称する遠縁の婦人と共々、諸事を詰めて、わたくしの為めに外遊費を準備して呉れつつあった。この外遊ということに就ては、わたくしが嘗て魔界の一ときの中に於て、食も絶え、親しむ人も絶え、望みも絶えながら、匍《は》い出し盛りの息子一郎を遊ばし兼ねて、神気朦朧《しんきもうろう》とした中に、謡うように言った。
「今に巴里《パリ》へ行って、マロニエの花を見ましょうねえ。シャンゼリゼーで馬車に乗りましょうねえ」
 それは自分でさえ何の意味か判らないほど切ないまぎれの譫言《うわごと》のようなものであった。頑是《がんぜ》ない息子は、それでも「あい、――あい」と聴いて
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