こへ来て始めて眼に涙を泛《うか》べた。
 わたくしは「ああ」といって身体を震《ゆす》った。もう逸作に反対する勇気はなかった。わたくしはあまりにも潔癖過ぎる家伝の良心に虐《さい》なまれることが度々ある。そのときその良心の苛責《かしゃく》さえ残らず打明けて逸作に代って担って貰うこともある。で、今の場合にも言った。
「任せるわ。じゃ、いいようにしてよ」
「それがいい。お前は今夜ただ、気持を取直す工夫だけをしなさい」
 逸作は、もしこのことで不孝の罰が当るようだったら俺が引受けるなどと冗談のように言って、それから女中に命じて雛妓《おしゃく》かの子を聘《へい》することを命じた。幸に、かの女はまだ帰らないで店にいたので、女中はその座敷へ「貰い」というものをかけて呉《く》れた。


「今晩は」
 襖《ふすま》が開いて閉って、そこに絢爛《けんらん》な一つくね[#「一つくね」に傍点]の絹布《きぬぎ》れがひれ伏した。紅紫と卵黄の色彩の喰《は》み合いはまだ何の模様とも判らない。大きく結んだ背中の帯と、両方へ捌《さば》き拡《ひろ》げた両袖《りょうそで》とが、ちょっと三番叟《さんばそう》の形に似ているなと思う途
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