るしく映じさすのであった。更に思い廻《めぐ》らされて来るこれから迎えようとする幾歳かの茫漠《ぼうばく》とした人世。
 水鳥はもう寝たのか、障子の硝子戸《ガラスど》を透してみると上野の森は深夜のようである。それに引代え廊下を歩く女中の足音は忙しくなり、二つ三つ隔てた座敷から絃歌《げんか》の音も聞え出した。料亭持前の不夜の営みはこれから浮き上りかけて来たようである。そのとき遠くの女中の声がして、
「かの子さーん」
 と呼ぶのが聞えた。それはわたくしと同名の呼名である。わたくしと逸作は、眼を円くして見合い、含み笑いを唇できっと引き結んだ。
 もう一度、
「かの子さーん」と聞えた。すると、襖《ふすま》の外の廊下で案外近く、わざとあどけなく気取らせた小娘の声で、
「はーい。ただ今」
 そして、これは本当のあどけない足取りでぱたぱたと駆けて行くのが聞えた。
「お雛妓《しゃく》だ」
「そうねえ」
(筆者はここで、ちょっとお断りして置かねばならない事柄がある。ここに現れ出たこの物語の主人公、雛妓かの子は、この物語の副主人公わたくしという人物とも、また、物語を書く筆者とも同名である。このことは作品に於け
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