らでもじかに書いて下さいましょうにと申しましたら、いや、俺はあの娘には何にも言えない。あの娘がひとりであれだけになったのだから、この家のことは何一つ頼めない。ただ、蔭で有難いと思っているだけで充分だ」と洩《もら》したそうである。
こんな事柄さえ次々に想《おも》い出されて来た。食品を運んで来る女中は、わたくしたち中年前後の夫妻が何か内輪揉《うちわも》めで愁歎場《しゅうたんば》を演じてるとでも思ったのか、なるべくわたくしに眼をつけないようにして襖《ふすま》からの出入りの足を急いだ。
七時のときの鐘よりは八時の鐘は、わたくしの耳に慣れて来た。いまは耳に手を当てるまでもなく静に聞き過された。一枚開けた障子の隙《すき》から、漆のような黒い水に、枯れ蓮《はす》の茎や葉が一層くろぐろと水面に伏さっているのが窺《のぞ》かれる。その起伏のさまは、伊香保の湯宿の高い裏欄干《うららんかん》から上《かみ》つ毛野《けの》、下《しも》つ毛野《けの》に蟠《わだかま》る連山の頂上を眺め渡すようだった。そのはろばろと眺め渡して行く起伏の末になると、枯蓮の枯葉は少くなり、ただ撓《たわ》み曲った茎だけが、水上の形さながらに水面に落す影もろとも、いろいろに歪《ゆが》みを見せたOの字の姿を池に並べ重ねている。わたくしはむかし逸作がこの料亭での会食以前、美術学校の生徒時代に、彼の写生帳を見ると全頁《ぜんページ》悉《ことごと》くこの歪んだOの字の蓮の枯茎しか写生してないのを発見した。そしてわたくしは「あんたは懶《なま》けものなの」と訊《き》いた。すると逸作は答えた。「違う。僕は人生が寂しくって、こんな楽書《らくがき》みたいなものの外、スケッチする張合いもないのです」わたくしは訊《たず》ね返した「おとうさんはどうしてらっしゃるの。おかあさんはどうしてらっしゃるの。そして、ごきょうだいは」逸作は答えた。「それを訊かないで下さい。よし、それ等があるとしたところで僕はやっぱり孤児の気持です」逸作はその孤児なる理由は話さなかったが、わたくしにはどうやら感じられた。「可哀《かわい》そうな青年」
何に愕《おどろ》いてか、屋後の池の方で水鳥が、くゎ、くゎ、と鳴き叫び、やがて三四羽続けて水を蹴《け》って立つ音が聞える。
わたくしは淋しい気持に両袖《りょうそで》で胸を抱いて言った。
「今度こそ二人とも事実正銘の孤児になりま
前へ
次へ
全31ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング