したのね」
「うん、なった。――だが」
 ここでちょっと逸作は眼を俯《うつむ》けていたが何気なく言った。
「一郎だけは、二人がいなくなった後も孤児の気持にはさしたくないものだ」
 わたくしは再び眼を上げて、蓮《はす》の枯茎のOの字の並べ重なるのを見る。怱忙《そうぼう》として脳裡《のうり》に過ぎる十八年の歳月。
 ふと気がついてみると、わたくしの眼に蓮の枯茎が眼について来たのには理由があった。
 夜はやや更《ふ》けて、天地は黒い塀を四壁に立てたように静まり閉すにつれ、真向うの池の端の町並の肉色で涼しい窓々の灯、軒や屋根に色の光りのレースを冠《かぶ》せたようなネオンの明りはだんだん華やいで来た。町並で山下通りの電車線路の近くは、表町通りの熾烈《しれつ》なネオンの光りを受け、まるで火事の余焔《よえん》を浴びているようである。池の縁を取りまいて若い並木の列がある。町並の家総体が一つの発光体となった今は、それから射出する夜の灯で、これ等の並木は影くろぐろと生ける人の列のようにも見える。並木に浸み剰《あま》った灯の光は池の水にも明るく届いて、さてはその照り返しで枯蓮の茎のO字をわたくしの眼にいちじるしく映じさすのであった。更に思い廻《めぐ》らされて来るこれから迎えようとする幾歳かの茫漠《ぼうばく》とした人世。
 水鳥はもう寝たのか、障子の硝子戸《ガラスど》を透してみると上野の森は深夜のようである。それに引代え廊下を歩く女中の足音は忙しくなり、二つ三つ隔てた座敷から絃歌《げんか》の音も聞え出した。料亭持前の不夜の営みはこれから浮き上りかけて来たようである。そのとき遠くの女中の声がして、
「かの子さーん」
 と呼ぶのが聞えた。それはわたくしと同名の呼名である。わたくしと逸作は、眼を円くして見合い、含み笑いを唇できっと引き結んだ。
 もう一度、
「かの子さーん」と聞えた。すると、襖《ふすま》の外の廊下で案外近く、わざとあどけなく気取らせた小娘の声で、
「はーい。ただ今」
 そして、これは本当のあどけない足取りでぱたぱたと駆けて行くのが聞えた。
「お雛妓《しゃく》だ」
「そうねえ」
(筆者はここで、ちょっとお断りして置かねばならない事柄がある。ここに現れ出たこの物語の主人公、雛妓かの子は、この物語の副主人公わたくしという人物とも、また、物語を書く筆者とも同名である。このことは作品に於け
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