雛妓
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)匂《にお》い

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)三日間|静臥《せいが》していた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)眼にまぼろし[#「まぼろし」に傍点]の
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 なに事も夢のようである。わたくしはスピードののろい田舎の自動車で街道筋を送られ、眼にまぼろし[#「まぼろし」に傍点]の都大路に入った。わが家の玄関へ帰ったのは春のたそがれ近くである。花に匂《にお》いもない黄楊《つげ》の枝が触れている呼鈴を力なく押す。
 老婢《ろうひ》が出て来て桟の多い硝子戸《ガラスど》を開けた。わたくしはそれとすれ違いさま、いつもならば踏石の上にのって、催促がましく吾妻下駄《あずまげた》をかんかんと踏み鳴らし、二階に向って「帰ってよ」と声をかけるのである。
 すると二階にいる主人の逸作は、画筆を擱《お》くか、うたた寝の夢を掻《か》きのけるかして、急いで出迎えて呉《く》れるのである。「無事に帰って来たか、よしよし」
 この主人に対する出迎えの要求は子供っぽく、また、失礼な所作なのではあるまいか。わたくしはときどきそれを考えないことはない。しかし、こうして貰わないと、わたくしはほんとに家へ帰りついた気がしないのである。わが家がわが家のあたたかい肌身にならない。
 もし相手が条件附の好意なら、いかに懐き寄り度《た》い心をも押し伏せて、ただ寂しく黙っている。もし相手が無条件を許すならば暴君と見えるまで情を解き放って心を相手に浸み通らせようとする。とかくに人に対して中庸を得てないわたくしの血筋の性格である。生憎《あいにく》とそれをわたくしも持ち伝えてその一方をここにも現すのかと思うとわたくしは悲しくなる。けれども逸作は、却《かえ》ってそれを悦《よろこ》ぶのである。「俺がしたいと思って出来ないことを、おまえが代ってして呉れるだけだ」
 こういうとき逸作の眼は涙を泛《うか》べている。
 きょうは踏石を吾妻下駄で踏み鳴らすことも「帰ってよ」と叫ぶこともしないで、すごすごと玄関の障子を開けて入るわたくしの例外の姿を不審がって見る老婢をあとにして、わたくしは階段を上って逸作の部屋へ行った。
 十二畳ほどの二方硝子窓の洋間に畳が敷詰めてある。描きさしの画の傍に逸作は胡坐《あ
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