つて壁越しに云つた。あとは笑ひにまぎらした。


 紙袋からぽろぽろと焼米を鉢にあけて、秋成はそれに湯を注いだ。そこにあつた安永五年刊の雨月《うげつ》物語を取つて鉢の蓋《ふた》にした。この奇怪に優婉《ゆうえん》な物語は、彼が明和五年三十五歳のときに書いたものである。書いてから本になるまで八年の月日がかかつてゐる。推敲《すいこう》に推敲を重ねた上、出版にもさうたう苦労が籠《こも》つてゐた。顧みると国文学者の分子の方が勝つてしまつた彼の生涯の中で、却《かえっ》て生れつき豊《ゆたか》であつたと思はれる、物語作者の伎倆《ぎりょう》を現したのは僅《わず》かに過ぎない。その僅かの著作のうちで、この冊子は代表作であるだけに他の著作は散逸させてしまつても、これには愛惜の念が残り、晩年になるほど手もとに引つけて置いた。それかと云つてさほど大事にして仕舞《しま》つて置くといふこともなかつた。運命に馬鹿《ばか》にされ、引ずり廻されたやうな一生の中で、自分の好みや天分が何になつたか。なまじそれがあつた為に毛をさか※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎにされるやうなくるしい目にあつたと思へば、感
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