いましい気持も、添ふが。
 夜も更け沈んだらしい。だみ声で耳の根に叩《たた》きつけるやうな南禅寺の鐘、すこし離れて追ひ迫る智恩院の鐘、遠くに並んできれいに澄む清水《きよみず》、長楽寺の鐘。寒さはいつの間にかすこしゆるんで、のろい檐《ひさし》の点滴の音が、をちこちで鳴き出した梟《ふくろう》の声の鳴き尻を叩《たた》いてゐる。雨ではない。靄《もや》だ。それが戸の隙間《すきま》から見えぬやうに忍び込んで行燈《あんどん》の紙をしめらしてゐる。湯鑵の水はすつかりなくなつて、ついでに火鉢の火の気も淡くなつてゐる。
 秋成は、尽きぬ思ひ出にすつかり焦立《いらだ》たさせられ、納《おさま》りかねる気持に引かへ、夜半過ぎて長閑《のどか》な淀《よど》みさへ示して来たあたりの闇の静けさに、舌打ちした。==なにが、この俺がこどもに帰つた翁《おきな》か。求めるこころも愛憎も、人に負けまい、勝負のこころも、みんな生殺《なまごろ》しのままで残されてゐるではないか。身体が、周囲が、もう、それをさせなくなつてしまつたまでだ。もしそれをさせるなら俺は右の手にも左にもちび筆を引握つて、この物恋ふこころ、説き伏せ度《た》い願ひを
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