いとして学問上の後事をさへ彼に托《たく》した。そして、この間に彼の名もそろそろ世間に聞え始めてゐた。しかし、それほどの師にすら、秋成の現実の対照に向つては、いつも絶対の感情の流露を許さぬ習癖が、うそ寒い疑心をもち==師のいひし事にもしられぬ事どもあつて、と結局は自力に帰り、独窓のもとでこそ却《かえっ》て研究は徹底すると独学|孤陋《ころう》の徳を讃美して居る。
かういふやうに、人に屈せず、人を信ぜぬ彼であつたが、前の養母にも一度|衷心《ちゅうしん》感謝を披瀝《ひれき》したといふのは、享和《きょうわ》元年彼は六十八歳になつたが、この年齢は大阪の歌島稲荷社の神が彼に与へた寿命の尽きる歳であつた。養母は秋成が四つの歳に疱瘡《ほうそう》を病み、その時死ぬべき筈《はず》の命を歌島稲荷に祈つて、彼が六十八歳まで生き延びる時を期して自分の命を召します代りに、幼い命を救はれよと祈つたのであつた。その六十八歳になつても彼は死なず、祈つた養母自身がそれから二年目に死んだのが、自分の身替りのやうに有がたく思はれ、死骸《しがい》に向つてしみじみ頭を下げたのだつた。それにしてもそれから今日までまた余りに生き延び
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