、まつたく話にもならぬほんの間に合せの小屋に過ぎなかつた。彼は投げた気持の中にも怒りを催さないでは居られなかつた。――七十年も生きた末がこれか、と。しかし、すぐにその怒りを宥《なだ》めて掌《てのひら》の中に転《ころば》して見る、やぶれかぶれの風流気が彼の心の一隅から頭を擡《もた》げた。彼は僅《わず》かばかりの荷物のなかを掻《か》き廻して、よれた麻の垂簾《すいれん》を探し出した。垂簾には潤《うるお》ひのある字で『鶉居《うずらい》』と書いてあつた。彼はその垂簾の皺《しわ》をのばして、小屋の軒にかけた。
 彼は十七八年前、五十五歳のときに家族と長柄《ながら》川のそばに住んで居たことがあつた。長柄の浜松がかすかに眺められ、隣の神社の森の蔭になつてゐて気に入つた住家だつた。彼はその時、家族を背負つたまま十数度も京摂の間に転宅して廻つたので、住家の安定といふことには自信が無くなつてゐた。自信を失ひながらなほ安定した気持になりたかつたので、その垂簾を軒にかけたのだつた。『鶉居』と書いたのは鶉《うずら》は常居なし、といふいひ慣《ならわ》しから思ひついた庵号《あんごう》だつた。
 さうした字のある垂簾を
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