の腰を覆うて枯蘆もぼうぼうと生えている。はね釣瓶《つるべ》の尖だけが見える。舞台の中央は枯草がまだらな浜砂。潮錆び松が程よき間隔を置いて立っている。舞台奥は琵琶湖の水が漫々と湛えている。上手に浮見堂が割合に近く見えて来ている。下手の遠景に三上山がそれかと思うほど淡く影を現している。舞台下手にちょっぽり枯田の畦《あぜ》が現れ、小さい石地蔵、施餓鬼《せがき》の塔婆など立っている。雲はだいぶ退いて行って、黎明前の落ちついたみずみずしい空の色。上手から源兵衛とおくみは肩をすり合うようにして出て来る。)
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源兵衛『男がおなごに家まで送って貰うという法があるかい。ここまで来れば家へ着いたも同様。そなたの念も届いたと言うものだ。さ、今度はわしがそなたを御主家まで送ってやりましょう』
おくみ『送って貰うはうれしいけれど。こなた、その戻りに衣川の宿場を通ってうっかり、夜明しの茶屋などに寄って往くまいものでもなし――』
源兵衛『あきれた悋気《りんき》おんなだ。そなたと言うれっきとした女房があるのに、何で今更の浮気。つまらぬ云い合いに手間取る暇に、その松明こっちへ貰おう』
おくみ『また、うまくわたしを騙《だま》しなさろうとて、その手には乗りませぬ』
源兵衛『またその手に乗らんとは、わしがそなたを騙したと言うのか』
おくみ『お騙しなさんしたとも。今朝のうちから、さっきのいままで』
源兵衛『そなたが来るのを留守にしたのは、拠所《よんどころ》ない若衆会所の相談。それも御門徒の一大事に就《つい》ての談合と、道々も口を酸《すっぱ》くして聞かしてやったではないか』
おくみ『それがほんとなら、大事ないけれど』
源兵衛『言いがかりもいい加減にしやれ、さあ、もう夜明けも間近だ。明方《あけがた》までにそなたも御主家へ戻らずば首尾が悪るかろう。その松明をこっちへ渡しや』
おくみ『いえいえ。わたしゃ、矢っ張り、あなたを家へ送り届けて、安心して、それから往にます』
源兵衛『もう、いいからその松明』
おくみ『いえいえもう少し………』
源兵衛『出しゃれ、出しゃれ』
おくみ『いや。いや』
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(奪い取り合ううち、松明はぱったり地に落ちる。舞台は薄闇。二人は思《おもわ》ず寄り添う。源右衛門の家より鉦《しょう》の音。)
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おくみ『源兵衛さま』
源兵衛『おくみ』
おくみ『ほんにたまさか逢瀬《おうせ》の一夜。その上なにか胸騒ぎがしてすこしでも長くあなたに引添うて、離れとうもござりませぬ』
源兵衛『わしとても同じ想いだ。然しお上人さまがよう言わるる此の世のさまは、生者必滅、会者定離《えしゃじょうり》。たとえ表向き夫婦となって、共白髪まで添い遂げようとしても、無常の風に誘わるれば、たちまちあの世と此の世の距て。訣れとなるのは遅い早いの違いだけだ。そこをよう聴き分けて御念仏一筋を便りにおとなしく御主家へ帰って呉れ。今分れても首尾さえつけば、直ぐこちらから迎えに行く。若しまた拙い首尾になり果てようと、落ち付く先は極楽浄土。一つうてなで花嫁花婿』(涙にむせぶ)
おくみ(いそがしく手探りで源兵衛の頬を探り)『や、や、源兵衛さん、こなた泣いていやしゃんすな。先程呉れたお珠数《じゅず》と言い、わたしのこの胸騒ぎ、またいまのお言葉。こりゃ迂濶《うかつ》にお傍は離れられぬ。こなた何か、わたしに隠し立てをしていなさるな』(珠数を取出す)
源兵衛(おくみの手を払い涙を拭いて)『は、は、は、は、何の隠し立てをしてよいものか。世の譬《たと》えにも何ぞといえば夫婦は二世と言うではないか。離れぬ、往なぬとあまりそなたが云い張るゆえ今別れても末は一つの極楽浄土とわしが言ったは、ありゃほんの口のはずみじゃ』
おくみ『いえいえ弾みではございません。それに先程から折々何ぞ思い詰めて居るらしいこなたのかくし溜息。さあ、言って下され。心が急《せ》く。それともこなたが言えずば、いっそのこと、こなたの家へ馳せて行き、ととさん、かかさんに理由《わけ》を話し、のっぴきさせず押しかけ女房。瞬きする間もおまえのお傍は離れません。もともと二人は許嫁《いいなずけ》、誰に遠慮も要らぬ。わたしゃもう、御主家へは帰りますまい』
源兵衛『こりゃまた乱暴な。時節が来ぬのに押しかけ女房とは――。わしに言い損じもあらばあやまりもしよう。頼む。御主家へ戻って呉れ』
おくみ『わたしゃ、どうあっても嫌じゃわいなあ』
源兵衛『すりゃこれほどに頼んでも』
おくみ『死んでもお傍を離れませぬ』
源兵衛『帰れ』
おくみ『いやじゃ、いやじゃ』
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(二人、また揉み合うところに、源右衛門の家の垣の中に声あって)
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×××『二人とも争うには及ばぬ。こちへ入れ。直ぐに夫婦にしてやろう』
源兵衛『そういう声は、父者の声』
おさき『親が許して夫婦の盃、御仏前でさすほどに、おくみ坊も早う、こなたへ入るがよいぞや』
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(裏の背戸開く)
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おくみ『これはまた、どうした運やら。たとえ狐狸の仕業《しわざ》とあっても、わたしゃ悦んで騙《だま》されよう。のう源兵衛さま』
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(源兵衛の手を取って背戸より入る)
(夜はしらじらと明け、暁の鐘が鳴る)
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     第三場

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(垂幕、湖水の漣《さざなみ》に配して唐崎の松の景。朝の渚鳥が鳴いている。
源右衛門と源兵衛旅姿で花道より出で来り、程よきところにて立止まる。)
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源右衛門『これ、忰、暫らくの間の故郷の見納め、この辺で一休みするとしようかい』
源兵衛『此の期《ご》になって、のんきらしい………。早うこの首うって三井寺へ駆けつけさっしゃれ』(片膝つき右の手で頸を叩く)
源右衛門(深い思入れ)『それじゃ、そなたは何もかも、承知の上での旅立ちか』
源兵衛『きのう一同会所で相談。御影像と引換えの首は、誰か一人、若衆から出さずは済むまいと聴いたときから、若者|頭《がしら》の此のわたし、心で覚悟はしておりました。それに今朝方思いがけないおくみとの盃。それを済ますと親子の旅立ち、行先を訊いてもただ遠いところとばかり。こりゃてっきり父者が自分の首とわしの首とを引換えに、三井寺から開山聖人さまの御影像を、取戻す心算《つもり》と知った。なあ父者、永く生きても五七十年、わし等のような素凡夫の首が、尊い御影像に換えられ、御門徒衆一統の難儀を救えるなら、願うても勤めたい親子がもうけ役。ただ気がかりなは、老先短い母御と、若嫁、女ばかりでどう暮して行くやら。お縋《すが》り申すは弥陀の御威徳』(合掌)
源右衛門(同じく合掌)『法の為めには不惜身命《ふしゃくしんみょう》の誡《いましめ》。やわか功徳の無いことがあろうか。生き残るも、死に往くもあなた任せ。心も軽き一葉船、風のまにまに散って行こうぞ』
源兵衛『もうすっかり、気が落附きました。さらば父者』
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(西に向き直る。)
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源右衛門『うむ、よい覚悟。わしもあとから直きに行く』
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(刀を抜いて源兵衛の首を打落す。袖を千切って首を包む。)

(幕、落ちる。)

(正面、三井寺の山門。左右へ厳重な柵が立ち並んでいる。柵内柵外の木々の紅葉は大分散り果てたが、それでもまだ名残《なごり》の色を留めて居て美しい。柵の前に燃え尽きた篝《かがり》が二三箇所置いてある。赤松の陰に「山門制戒」の高札も立っている。
法衣の上に頭巾、冑や腹巻をつけた法師が得物得物を執って固めている。武装した稚児も交っている。遠くで大勢の読経の声終る。)
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法師一『何奴《どいつ》だ、そこへ来たのは』
源右衛門(刀を提げ立《たち》はだかったまま)『本願寺浄土真宗、本寺のものだ。山科より使いに来たと、和尚さんへ取次いで下せえ』
法師二『言葉も知らぬ下司《げす》なおやじ奴《め》。その上に刃《やいば》なぞ抜身で携《さ》げ、そもそも此処《ここ》は何《いず》れと心得居る。智証大師伝法|灌頂《かんじょう》の道場。天下に名だたる霊域なるぞ』
源右衛門『言葉が悪くばあやまります。何はともあれ、お預け申した開祖様御影像を、礼物持って受取りに来ました。さっと此処を通して下せえ』
法師三『ならんならん』
法師一『狼藉《ろうぜき》いたさば、そのままには捨て置かんぞ』
法師二『比叡の山法師の拳固の味とはまた違った三井法師の拳固の味、その白髪頭に食って見たいか』(拳を振り上げる)
源右衛門『事を別《わ》けて頼んでいるのに、どうしても通さぬと言うなら、腕立ては嫌いな源右衛門だが仕方もねえ。琵琶湖の浪で鍛え上げた腕節《うでっぷし》。押しても通るが、それで承知か』
法師達『何を小癪《こしゃく》な』
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(源右衛門と法師達と睨《にら》み合って詰め寄る。朝の勤行を終え、衆僧を従えて門内を通りかかった円命阿闍梨、立出る。)
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阿闍梨『これ待て、一同』
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(源右衛門、法師等、そこへ蹲《うずくま》る。)
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阿闍梨『様子のほどは、略《ほぼ》門内より覗《うかが》い知った。源右衛門とやら、山科坊より親鸞影像を引取りに参りし由。大儀であるぞ』
源右衛門『恐れ入りましてござりまする』
阿闍梨『して、引換えの礼物ほ、確《し》かと持参いたしたな』
源右衛門『はい。これでござりまする』(袖の包みより源兵衛の首を出して前に置く。)
阿闍梨『や、や、こりゃ真正の生首』
源右衛門『粗末の品ではござりまするが、手塩にかけて育てた忰。首の素性は確《たしか》でござりまする』
阿闍梨『よもや、それまでは得為《えな》すまじと思いしに、まことに首を持ち来りしか。(暫時深き思い入れ。また思い返して)然し源右衛門、約束は約束。首の数は二つであった筈だが』
源右衛門『あとの一つは即ちこの首。(自分の首を指して)体につけて持参しました。御手数ながら切り取って二つの生首、お揃え下され』
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(阿闍梨始め法師一同、驚き且つ厳粛な気分にうたれ、暫らく沈黙。)
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阿闍梨(嘆息)『蓮如どのは、よい信徒を持たれた。うらやましいことである。(源右衛門をみつめて小間。)これ源右衛門とやら、親鸞の影像は直ちにそちに渡して取らす。大事に護《まも》り戻って山科坊へ安置いたせ』
源右衛門『え、え、すりゃ、私奴にお返し下さりまするか。……でも御入用の今一つのこの首は』
阿闍梨(不憫の声音にて)『決して、いらぬ』
源右衛門『それは、まことでござりまするか』
阿闍梨『偽を申そうか。それ寺の衆。影像を持って来て此の者に取らせよ』
法師五六人『はい』(門内へ入る)
阿闍梨『今更言うても由ないことだが、首二つの引換え料とは、ありゃ此の方の切ない苦肉の親切から、出来ぬ難題を持ちかけ、今暫らく影像を、此の方に預って置くつもりじゃった』
源右衛門『はて、親切とおっしゃりますと』
阿闍梨『蓮如どのは永の流浪《るろう》。たとえ北国辺土は教え靡《なび》くとも、都近くは留守の間の荒土。然るに叡山の西塔慶純の末流も、まだ居ることなれば、たとえ山科坊建立あるとも、いつ如何なる折を見付けて再び乱入なさんも知れず。その理由言うて聞かして親鸞影像を、なお暫らく三井寺方へ預り置かんとすれど
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