の身の守りでもござります。どうして唱えずに居られましょう。それに、わたくしが引取られました奉公先の御主人は、大の念仏嫌い、南無と言うても、もう眼くじら立て、舌打ちなされます。身を退こうにも行先は無し。御主様に育ての恩はあり、さればとてご唱名は欠かしたくなし、義理と法に板挟みの揚句《あげく》が、御念仏を唱えとうてなりませぬ時には「忘れまいぞやあのことを」「忘れまいぞやあのことを」かように申して阿弥陀さまへの申訳、自分の心への誓いにして居りまする。あのことを、と申しますのは勿論信心のことでございます。然しそう唱えながらも斯ういう空言を申さねばならぬ身の因果、女の罪障、恐ろしゅう思われてなりませぬ。もうしお上人さま。こういう空言のようなものでも、お念仏の代りになりましょうか。仏さまのお救いには洩れませぬか。どうぞそれを教えて下さりませ』
[#ここから2字下げ]
(上人、しきりに涙を払いながら)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
蓮如『おお、念仏の代りになるとも、なるとも。おくみどの。仏は知見を以って何事も、広く知食《しろしめ》すことなれば、そなたの念仏代りの言葉をも、とくと事情をお汲み取りなされ、念仏に通用さして下さるはもとより、只今|正定聚《しょうじょうしゅ》の数に入り、極楽往生疑いなし。女人と言えども天晴《あっぱ》れな御同行の一人じゃぞ』
おくみ『それでは「忘れまいぞやあのことを」でも大事ございませぬか』
蓮如『そなたに限って大事ない。安心して唱えやれ』
おくみ『やれ有難や忝《かたじ》けなや。此の上はどんな辛《つら》い奉公も、苦しい勤めも辛抱いたします。※[#歌記号、1−3−28]忘れまいぞやあのことを。※[#歌記号、1−3−28]忘れまいぞやあのことを。※[#歌記号、1−3−28]忘れまいぞやあのことを。何遍でも唱えさして頂きます』
[#ここから2字下げ]
(合掌して蓮如を拝む)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
蓮如(合掌して拝を受けながら)『しかしおくみどの。「忘れまいぞやあのことを、」でも差支えない。差支えないが、「忘れまいぞ、」と自分の力で自分のこころを警《いま》しむるところにまだ自力の執《しゅう》が残っておる。これは、「忘れられぬぞあのことを、」と申す方が弥陀の方より与え給う信心を現すのみか、本願を悦《よろこ》ぶ貌もあり、ずんと当流|易行《いぎょう》の道に適《かな》うことである。迚《とて》ものことにそう唱えしゃっしゃれ』
おくみ『「忘れられぬぞあのことを」でござりまするか。「忘れられぬぞあのことを」でござりまするか。なんじゃ知らぬけれど、わたくしどもには一そ尊いように感じられます。お上人さまの御証明を得たからには、もう安心いたしました。では、これを土産《みやげ》に勇んで御主家へ戻ります。では御機嫌よう。お上人さま』
蓮如『まあ待ちやれ、おくみ、そなた何ぞ、も一つ忘れたものはありはせんかの』
おくみ『はて、忘れたものとは』
蓮如『さあ忘れたものとは』
おくみ『何のことでございます』
蓮如『そなたに取ってあの世の往生は定まった。然し此の世でいっち慕わしいお人に逢わんで往んでも大事ないか』
おくみ『あれ、御慈悲の有難さに源兵衛さんのことは、いつの間にやら忘れていた。だが思い出してみると、こりゃどうしても源兵衛さんに逢わなくては……お上人さまも罪なお方でいらせられます』(再び恥かし気な様子)
蓮如『源兵衛はやがて御堂へ来る手筈《てはず》で、此の道を来ることになっている。わしは僧侶のことじゃ。恋の手引きは出来ぬ。しかし、ひとり手に此処へ通って来るものを強《し》いて知らさずに置く必要もあるまい。やがて来るわ。まあ、よいようにしなされ。わしはこれで訣《わか》れるとしよう』
おくみ『何から何まで御心くばり、有難うて涙がこぼれます』
蓮如『では、まめに暮しなさい』
[#ここから2字下げ]
(蓮如行きかける。供の竹原の幸子坊後より続く。蓮如、幸子坊の持った松明《あかり》に目をつけ)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
蓮如『これこれ幸子坊』
幸子坊『はい』
蓮如『今夜は月明り、松明は要るまい。その辺に捨てなさい。序に火打袋も』
幸子坊円『滅相《めっそう》な。空も大分曇って参りました。闇に松明は離せませぬ』
蓮如『いや、月明りじゃ。蟻《あり》の穴も数えられるばかりの月明りじゃ。松明は要らぬと申すに』
幸子坊『でも』
蓮如(おくみの方を目配せつつ)『幸子坊、師の命を背《そむ》かるるか。えい、松明は捨ていと申すに』
幸子坊(漸く意味がのみ込めて)『は、は、は、成程《なるほど》月明りでござった。これは飛んだ失礼、では捨てまするでござり
前へ 次へ
全9ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング