取返し物語
岡本かの子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)彼方《あちら》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)只今|正定聚《しょうじょうしゅ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]
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前がき
いつぞやだいぶ前に、比叡の山登りして阪本へ下り、琵琶湖の岸を彼方《あちら》此方《こちら》見めぐるうち、両願寺と言ったか長等寺と言ったか、一つの寺に『源兵衛の髑髏』なるものがあって、説明者が殉教の因縁を語った。話そのものが既に戯曲的であったので劇にしたらと思い付いて、其《その》後調べの序《ついで》に気を付けていると、伝説として所々に出ている。此のたび機会があったのでまとめてみた。伝説には三井寺はもっと敵役《かたきやく》になっているが、さまではと和げて置いた。
一たい歌舞伎劇の手法は、筋の運び方と台詞《せりふ》のリズムに、原理性の表現主義を持っていて、ものに依っては非常に便利なものである。
滅ぼしてしまうのは惜しい。此の戯曲には可《か》なりそれを活用してみた。
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時
文明十一年十一月(室町時代末期)
処
近江《おうみ》国琵琶湖東南岸
人
蓮如《れんにょ》上人 浄土真宗の開祖親鸞聖人より八代目の法主にして、宗門中興の偉僧。世に言う「御文章」の筆者。六十九歳。
竹原の幸子坊 上人常随の侍僧。
堅田の源右衛門 堅田ノ浦の漁師頭。六十二歳。多少武士の血をひいて居る。
同源兵衛 源右衛門の息子。二十三歳。
おさき 源右衛門妻。五十四歳。
おくみ 孤児の女中、もと良家の娘、源兵衛の許嫁。十八歳。
円命阿闍梨 三井寺の長老。
三井寺の法師稚児大勢。
その他、村の門徒男女大勢。
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第一場
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(山科《やましな》街道追分近くの裏道。冬も近くで畑には何も無い。ところどころ大根の葉の青みが色彩を点じている。畦《あぜ》の雑木も葉が落ち尽し梢は竹藪と共に風に鳴っている。下手《しもて》の背景は松並木と稲村の点綴《てんてい》でふち取られた山科街道。上手《かみて》には新らしく掘られた空堀、築きがけの土塀、それを越して檜皮葺《ひわだぶ》きの御影堂の棟が見える。新築の生々しい木肌は周りの景色から浮き出ている感じ。柱五十余木を費し、乱国にしては相当な構えの建築物の棟である。花道から舞台を通って御影堂の塀横に行きつく道は造営の材料を運ぶ為めに新しく造ったもので、里道よりはやや広く、路面に人々の踏み乱らした足跡、車の轍《わだち》の跡が狼藉《ろうぜき》としている。使い残りの小材木や根太石《ねだいし》も其《そ》の辺に積み重ねられている。遠景、渋谷越の山峰は日暮れの逆光線に黝《くろず》んでいる。)
開幕。土地の信徒で工事手伝いの男女の一群上手よりどやどやと出て来て舞台の下手へ入る。中の三四人、序に運んで来た材木切れをそこに置き、身体の埃を打ち叩き、着物をかい繕《つく》ろいなどしつつ作業を仕舞ったしこなし。
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信徒一『や、これでまあ御影堂の仕事もすっかり終った。明日からは土塀の方の手が足らんちゅうから、あちらの手伝いに廻ったろかい』
信徒二『そやそや。何でも手の足らん箇所を見付け次第、そこへかぶりついて是が非でも此《こ》の月末の親鸞さま御正忌会のお※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]夜《たいや》までには美んごと拵《こしら》え上げにゃ、わてらの男が立たん』
信徒三『わてらの男なぞどうでもええ。御門徒衆、一統の男さえ立てばええわい』
信徒二『そりゃまあそうや。御門徒衆一統の男さえ立てばええ。わしもその中の一人やからな。だが、なんしい十年まえ大谷の御廟所を比叡山の大衆に焼き払われてから、大将株のお上人さまは加賀、越前と辺海の御苦労。悪う言えば田舎廻りや。それがようよう時節がめぐって来て、都近くの此の山科にお堂の再建。こりゃ門徒一同のずんと男が立つわけじゃ』
信徒四『お堂が斯《こ》う立派に出来てみると、早く中身の親鸞さまの御影像もお迎え申し、据わるところに据わって頂かんことにゃ、何となく落付きが悪い。仏造って魂入れずと言うこともあるからなあ』
信徒一『そりゃわいどもより、御先祖孝行のお上人さまの方がどのくらいそれを望んで居らりょうか知れん。それで十年前に北国へお立退きの際、お預けなされた三井寺の方へ此の間じゅうからさいさい掛合われなされたけれど、一向取戻しは埒《らち》明か
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