てジョーンは離れて行かねばならなかった。彼は自分の心配を運命に任せて元気よさそうに帰って行った。ワルトンは本当に幸福であった。彼の思うようにアイリスは喜んで呉れた。彼より余計に彼女は彼を頼って呉れた。もう夜中に近づいて居た。おどけたりよろけたりした二人は一寸疲れを休めに町角の小公園の灌木の間に入って行った。接吻は優しく骨身に滲みたのであった。翌朝ワルトンは、今日からどんな喜びの緊張と心の自由があるだろうかと、胸をわくわくさせて跳ね起きたが、アイリスの出勤前を道に擁して逢った時、すっかりワルトンの期待は外ずれた。アイリスは昨夜の一時的亢奮の冒険を苦々《にがにが》しく思って居た。彼女の性に対する好奇心が、あんなにもたわいなくワルトンに乗ぜられた事が、じっとして居られない程口惜しかった。感情の反動でワルトンと彼女は殆んど口を利かなかった。彼女の内に籠っての無表情と無口はワルトンを狼狽《ろうばい》させ、殆んど彼女に腕力を加え度いほど憤らせた。でも、その後、彼女は気持よく晴れた空気の中で、すがすがしい緑樹の蔭で、時には打ち解けてワルトンを懐かしそうに見えた。夢遊病者のように幽幻に彼女が振舞うのにワルトンは暫らく見とれた。が、それ等の彼女の美点は、ワルトンに少しも関係の無い気がし出した。全く彼女の彼に対する反応はほんの僅かであった。ワルトンは寂しくて馬鹿らしくて仕様がないのであった。でも彼は楽天主義者であったから、期待は細々と持ち続けた。半月以上経って、アイリスが自分と同程度にジョーンを遇するのを知って、ワルトンは意気込んだ。彼は元気を出した。余計に自分を意識して、自分の力を信じた。彼女を自分の庇護《ひご》の下に連れて来ようと思い暮した。彼はジョーンに今直ぐにも鼻をあかしたかった。屹度《きっと》それが出来るとワルトンは信じて居た。ジョーンを物の数にもしなかった。
 それが、そのジョーンが、今こんな暴力でワルトンを撲《なぐ》った。気が遠くなる程叩き付けた。ワルトンは意外にジョーンを大敵だと知って怒張した。決死の闘争が二人を捕らえた。
 ジョーンとワルトン、今は何を置いても相手を一つでも余計に撲りたかった。突きたかった。彼等はだんだん闘争そのものになって行った。彼等の意識には今はアイリスも無かった。決闘場も無かった、晩春も、午後の陽射しも、何もかも無かった。唯々衝突が、岩に当る怒濤
前へ 次へ
全13ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング