だ、プールの灰汁《あく》もよく脱けていないので、産卵は思いとどまり、復一は親魚の詮索《せんさく》にかかった。彼は東京中の飼育商や、素人飼育家を隈《くま》なく尋《たず》ねた。覗った魚は相手が手離さなかった。すると彼は毒口を吐いてその金魚を罵倒《ばとう》するのであった。
「復一ぐらい嫌な奴はない。あいつはタガメだ」
 こういう評判が金魚家仲間に立った。タガメは金魚に取付くのに凶暴性《きょうぼうせい》を持つ害虫である。そんなことを云われながらも彼はどうやらこうやら、その姉妹魚の方をでも手に入れて来るのであった。彼の信じて立てた方針では、完成文化魚のキャリコとか秋錦とかにもう一つ異種の交媒の拍車《はくしゃ》をかけて理想魚を作るつもりだった。
 翌年の花どきが来て、雄魚たちの胸鰭を中心に交尾期を現す追星が春の宵空のように潤《うるお》った目を開いた。すると魚たちの「性」は、己《おのれ》に堪えないような素振りを魚たちにさせる。艦隊《かんたい》のように魚以上の堂々とした隊列で遊弋し、また闘鶏《とうけい》のように互いに瞬間を鋭《するど》く啄《つつ》き合う。身体に燃えるぬめりを水で扱き取ろうとして異様に翻《ひるがえ》り、翻り、翻る。意志に礙《とどこお》って肉情はほとんどその方へ融通《ゆうずう》してしまった木人のような復一はこれを見るとどうやらほんのり世の中にいろ気を感じ、珍らしく独りでぶらぶら六本木の夜町へ散歩に出たり、晩飯の膳《ぜん》にビールを一本註文したりするのだった。
 それを運んで来た養母のお常は
「あたしたちももう隠居《いんきょ》したのだから、早くお前さんにお嫁さんを貰って、本当の楽をしたいものだね」世間並に結婚を督促《とくそく》した。
「僕の家内は金魚ですよ」
 酔《よ》いに紛れて、そういう人事には楔《くさび》をうっておくつもりで、復一はこういうと、養母は
「まさか――おまえさんはいったい子供のときから金魚は大して好きでなかったはずだよ」と云った。
 養父の宗十郎はこの頃|擡頭《たいとう》した古典復活の気運に唆《そそ》られて、再び荻江節の師匠に戻りたがり、四十年振りだという述懐《じゅっかい》を前触《まえぶ》れにして三味線《しゃみせん》のばちを取り上げた。
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 荻江節
松はつらいとな、人ごとに、皆《みな》いは根の松よ。おおまだ歳若な、ああ姫《ひめ》小松《こまつ》。なんぼ花ある、梅《うめ》、桃《もも》、桜。一木ざかりの八重一重……。
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 復一にはうまいのかまずいのか判らなかったが、連翹《れんぎょう》の花を距《へだ》てた母屋から聴えるのびやかな皺嗄声《しわがれごえ》を聴くと、執着の流れを覚束なく棹《さお》さす一個の人間がしみじみ憐れに思えた。
 養父はふだん相変らず、駄金魚を牧草のように作っていたが、出来たものは鼎造の商会が買上げてくれるので販売は骨折らずに済んだ。だが
「とても廉《やす》く仕切るので、素人《しろうと》の商売人には敵《かな》わないよ。復一、お前は鼎造に気に入っているのだから、代りにたんまりふんだくれ」
 と宗十郎はこぼしていった。そして多額の研究費を復一の代理になって鼎造から取って来て痛快がっていた。
 復一は親達が何を云っても黙って聞き流しながらせっせとプールの水を更えた。別々に置いてある雄魚と雌魚とをそっといっしょにしてやった。それから湖のもくもくから遥々《はるばる》採って来た柳のひげ根の消毒したものを大事そうに縄《なわ》に挟《はさ》んで沈めた。

 空は濃青に澄《す》み澱んで、小鳥は陽の光を水飴のように翼《つばさ》や背中に粘《ねば》らしている朝があった。縁側から空気の中に手を差出してみたり、頬を突き出してみたりした復一は、やがて
「風もない。よし――」といった。
 日覆いの葭簾を三分ほどめくって、覗く隙間《すきま》を慥《こしら》えて待っていると、列を作った三匹の雄魚は順々に海戦の衝角《しょうかく》突撃《とつげき》のようにして、一匹の雌魚を、柳のひげ根の束《たば》の中へ追い込もうとしている。雌は避けられるだけは避けて、免《まぬが》れようとする。なぜであろうか。処女の恥辱のためであろうか。生物は本来、性の独立をいとおしむためか。それともかえって雄を誘うコケットリーか。ついに免れ切れなくなって、雌魚は柳のひげ根に美しい小粒《こつぶ》の真珠のような産卵を撒き散らして逃げて行く。雄魚等は勝利の腹を閃めかして一つ一つの産卵に電撃を与える。
 気がついてみると、復一は両肘を蹲《しゃが》んだ膝頭《ひざがしら》につけて、確《かた》く握《にぎ》り合せた両手の指の節を更に口にあててきつく噛みつつ、衷心《ちゅうしん》から祈っているのであった。いかにささやかなものでも生がこの世に取り出されるということはおろそかには済まされぬことだ。復一のように厭人症《えんじんしょう》にかかっているものには、生むものが人間に遠ざかった生物であるほど緊密な衝動を受けるのであった。まして、危惧《きぐ》を懐《いだ》いていた異種の金魚と金魚が、復一のエゴイスチックの目的のために、協同して生を取り出してくれるということは、復一にはどんなに感謝しても足りない気がした。
 休養のために、雌魚と雄魚とを別々に離した。そして滋養《じよう》を与えるために白身の軽い肴《さかな》を煮《に》ていると、復一は男ながら母性の慈《いつく》しみに痩せた身体もいっぱいに膨《ふく》れる気がするのであった。
 しかし、その歳|孵化《ふか》した仔魚は、復一の望んでいたよりも、媚《こ》び過ぎてて下品なものであった。

 これを二年続けて失敗した復一は、全然出発点から計画を改めて建て直しにかかった。彼は骨組の親魚からして間違っていたことに気付いた。彼の望む美魚はどうしても童女型の稚純を胴にしてそれに絢爛やら媚色《びしょく》やらを加えねばならなかった。そして、これには原種の蘭鋳より仕立て上げる以外に、その感じの胴を持った金魚はない。復一のこころに、真佐子の子供のときの蘭鋳に似た稚純な姿が思い出された。とにもかくにも真佐子に影響されていることの多い自分に、彼は久し振りに口惜《くや》しさを繰り返した。その苦痛は今ではかえってなつかしかった。
 しかし、彼は弱る心を奮い立たせ、いったん真佐子の影響に降伏して蘭鋳の素朴《そぼく》に還《かえ》ろうとも、も一度彼女の現在同様の美感の程度にまで一匹の金魚を仕立て上げてしまえば、それを親魚にして、仔《こ》に仔を産ませ、それから先はたとえ遅々《ちち》たりとも一歩の美をわが金魚に進むれば、一歩のわれの勝利であり、その勝利の美魚を自分に隷属させることが出来ると、強いて闘志を燃し立てた。ここのところを考えて、しばらく、忍《しの》ぶべきであると復一は考えた。復一は美事な蘭鋳の親魚を関西から取り寄せて、来るべき交媒の春を待った。蘭鋳は胴は稚純で可愛らしかった。が顔はブルドッグのように獰猛《どうもう》で、美しい縹緻《ひょうち》の金魚を媒《か》けてまずその獰猛を取り除くことが肝腎《かんじん》だった。

 崖邸にもあまり近づかない復一は真佐子の夫にもめったに逢わなかったが真佐子の夫という男は、眼は神経質に切れ上り、鼻筋が通って、ちょっと頬骨が高く男性的の人体電気の鋭そうな、美青年の紳士《しんし》であった。ある日曜日の朝のうち真佐子と女の子を連れて、ロマネスクの茶亭へ来て、外字新聞を読んだりしていた。その時すぐ下の崖の中途の汚水の溜りから金魚の餌のあかこ[#「あかこ」に傍点]を採って降りようとした復一がふとそこを見上げたが、復一はそれなり知らぬ振りでさっさと崖を降りてしまった。それを見た真佐子はそこに夫と居ながら、二人一緒に居るのが何だかうしろめたかった。
「いいじゃないか。なぜさ」
 と夫は無雑作に云った。
「だって、ここで二人並んで居るのをどこからでも見えるでしょう」
 と真佐子は平らに押した。
「どうして君とおれと、ここに居るのが人に見えて悪いのかね」
 夫の言葉には多少嫌味が含んでいるようだ。
「何も悪いってことありませんけど、谷窪の家の人達から見えるでしょう。あの人まだ独身なんですもの」
「金魚の技師の復一君のことかね」
「そうです」
 すると夫はやや興奮して軽蔑的に
「君もその人と結婚したらよかったんだろう」
 すると真佐子は相手の的から外れて、例の漂渺とした顔になって云った。
「あたしは、とても、縹緻好みなんですわ。夫なんかには。そうでないと一緒《いっしょ》にご飯も喰べられないんです」
「敵わんね。君には」怒《おこ》ることも笑うことも出来なくなった夫は、「さあ、お湯にでも入ろうかね」と子供を抱いて中へ入って行った。
 そのあとのロマネスクの茶亭に腰掛けて真佐子は何を考えているか、常人にはほとんど見当のつかない眼差《まなざ》しを燻《くゆ》らして、寂しい冬の日の当る麻布の台をいつまでも眺めていた。

「鯉と鰻の養殖がうまく行かないので、鼎造、この頃四苦八苦らしいよ。養魚場が金を喰い出したら大きいからね」
 築けども築けども湧き水が垣《かき》の台を浮かした。県下の半鹹《はんかん》半淡《はんたん》の入江の洲岸に鼎造はうっかり場所を選定してしまったのであった。その上都会に近い静岡県下の養魚場が発達して、交通の便を利用して、鯉鰻《りまん》を供給するので、鼎造の商会は産魚の販売にも苦戦を免れなかった。しかし、痛手の急性の現われは何といっても、この春財界を襲った未曾有《みぞう》の金融《きんゆう》恐慌《きょうこう》で、花どきの終り頃からモラトリアムが施行《しこう》された。鼎造の遣り繰りの相手になっていた銀行は休業したまま再開店は覚束ないと噂された。
「復一君の研究費を何とか節約してもらえんかね、とさすが鼎造のあの黒い顔も弱味を吹いたよ」
 年寄は、結局、復一の研究費は三分の一に切詰めることを鼎造に向って承知して来たにも拘《かかわ》らず、鼎造の窮迫《きゅうはく》を小気味よげに復一に話した。
 それを他人事のように聞き流しながら、復一は関西から届いた蘭鋳の番《つが》いに冬越しの用意をしてやっていた。菰《こも》を厚く巻いてやるプールの中へ、差し込む薄日に短い鰭と尾を忙しく動かすと薄墨の肌からあたたかい金爛の光が眼を射て、不恰好なほどにも丸く肥えて愛くるしい魚の胴が遅々として進む。復一は生ける精分を対象に感じ、死灰の空漠を自分に感じ、何だか自分が二つに分れたもののように想えて面白い気がした。復一は久し振りに声を挙げて笑った。すると宗十郎が背中を叩いて云った。
「びっくりするじゃないか。気狂《きちが》いみたいな笑い方をして、いくら暢気《のんき》なおれでも、ひやりとしたよ」

 年の暮も詰ってから真佐子に二番目の女の子が生れたという話で、復一は崖上の中祠堂に真佐子の姿を見ずに年も越え、梅の咲く頃に、彼女の姿を始めて見た。また子を産んで、水を更えた後の藻《も》の色のように彼女の美はますます澄明《ちょうめい》と絢爛を加えた。復一が研究室に額にして飾っておく神魚華鬘の感じにさえ、彼女は近づいたと思った。今日は真佐子は午後から女詩人の藤村女史とロマネスクの休亭に来ていた。二人の女は熱心に話し合っている。枯骨《ここつ》瓢々《ひょうひょう》となった復一も、さすがに彼女等が何を話すか探りたかった。夕方近くあかこ[#「あかこ」に傍点]を取ることを装《よそお》って、復一はこそこそと崖の途中の汚水の溜りまで登って、そこで蹲《うずくま》った。彼は三十前なのに大分老い晒《さら》した人のような身体つきや動作になっていた。二人の婦人が大分前から話しつづけていた問題だったらしい。けれど復一のところまでははっきり聞えて来なかった。実はそこで藤村女史と真佐子との間に交されている会話の要点はこんなことなのである……真佐子が部屋をロココに装飾し更えようと提議するのに藤村女史は苦り切った間らしいものを置いて、
「四五年前にあなたがバロックに凝《こ》ったさえ、わたしは内心あんまり人工的過ぎ
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