ると思って賛成しなかったのよ。まして、ロココに進むなんて一層人工的ですよ。趣味として滅亡の一歩前の美じゃなくって」
「でも、どうしてもそうしたくって仕方がないのよ」
「真佐子さん、あなたは変ってるわね」
「そうかしら。あたしはあなたがいつかわたしのことおっしゃったように、実際、蒼空と雲を眺めていて、それが海と島に思えると云った性質でしょうね」
 復一はそっと庭へ降りて来て、目だたぬ様に軒伝《のきづた》いに夕暮近い研究室へ入った。復一はそこの粗末な椅子によってじっと眼を瞑《つむ》った。彼は近頃ほとんど真佐子と直接逢ってはいない。今日のように真佐子が中祠堂に友人と連れ立って来ても子供や夫と来てもほとんどそこで云う真佐子達の会話は聞き取れない。だが復一は遠くからでも近頃の真佐子のけはいを感じて、今は自分に托した金魚の事さえ真佐子は忘れているかも知れない、真佐子はますます非現実的な美女に気化して行くようで儚《はか》ない哀感が沁々と湧くのであった。

 蘭鋳から根本的に交媒を始め出した復一はおよその骨組の金魚を作るのに三年かかった。それから改めて、年々の失敗へと出立した。
「日暮れて道遠し」
 復一は目的違いの金魚が出来ると、こう云った。しかし、ただ云うだけで、何の感傷も持たなかった。ただ、いよいよ生きながら白骨化して行く自分を感じて、これではいけないとたとえ遠くからでも無理にも真佐子を眺めて敵愾心《てきがいしん》やら嫉妬やら、憎《にくし》みやらを絞り出すことによって、意力にバウンドをつけた。
 古池には出来損じの名金魚がかなり溜った。復一が売ることを絶対に嫌うので、宗十郎夫婦は、ぶつぶつ云いながら崖下の古池へ捨てるように餌をやっていた。宗十郎夫婦は苦笑してこの池を金魚の姥捨《うばす》て場だといっていた。
 それからまた失敗の十年の月日が経った。崖の上下に多少の推移があった。鼎造は死んで、養子が崖邸の主人となり、極めて事業を切り縮めて踏襲《とうしゅう》した。主人となった夫は真佐子という美妻があるに拘《かかわ》らず、狆《ちん》の様な小間使に手をつけて、妾《めかけ》同様にしているという噂が伝わった。婿の代になって崖の上からの研究費は断たれたので、復一は全く孤立無援《こりつむえん》の研究家となった。
 宗十郎は死んで一人か二人しか弟子のない荻江節教授の道路口の小門の札も外された。
 真佐子は相変らず、ときどきロマネスクの休亭に姿を見せた。現実の推移はいくらか癖づいた彼女の眉の顰《ひそ》め方に魅力を増すに役立つばかりだ。いよいよ中年近い美人として冴え返って行く。
 昭和七年の晩秋に京浜に大暴風雨があって、東京市内は坪《つぼ》当り三|石《ごく》一|斗《と》の雨量に、谷窪の大溝も溢れ出し、せっかく、仕立て上げた種金魚の片魚を流してしまった。
 同じく十年の中秋の豪雨は坪当り一石三斗で、この時もほとんど流しかけた。
 そんなことで、次の年々からは秋になると、復一は神経を焦立《いらだ》てていた。ちょっとした低気圧にも疳《かん》を昂《たか》ぶらせて、夜もおろおろ寝られなかった。だいぶ前から不眠症にかかって催眠剤《さいみんざい》を摂《と》らねば寝付きの悪くなっていた彼は、秋近の夜の眠のためには、いよいよ薬を強めねばならなかった。
 その夜は別に低気圧の予告もなかったのだが、夜中から始めてぼつぼつ降り出した。復一は秋口だけに、「さあ、ことだ」とベッドの中で脅《おび》えながら、何度も起き上ろうとしたが、意識が朦朧として、身体もまるで痺《しび》れているようだった。雨声が激しくなると、びくりとするが、その神経の脅えは薬力に和《なご》められて、かえって、すぐその後は眠気を深めさせる。復一はベッドに仰向けに両肘を突っ張り、起き上ろうとする姿勢のまま、口と眼を半開きにしてしばらく鼾《いびき》をかいていた。ようやく薬力が薄らいで、復一が起き上れたのは、明け方近くだった。
 雨は止んで空の雲行は早かった。鉛色《なまりいろ》の谷窪の天地に木々は濡《ぬ》れ傘《がさ》のように重く搾《すぼ》まって、白い雫《しずく》をふしだらに垂らしていた。崖肌は黒く湿って、またその中に水を浸み出す砂の層が大きな横縞《よこじま》になっていた。崖端のロマネスクの休亭は古城塞《こじょうさい》のように視覚から遠ざかって、これ一つ周囲と調子外れに堅《かた》いものに見えた。
 七つ八つの金魚は静まり返って、藻や太藺《ふとい》が風の狼藉の跡に踏みしだかれていた。耳に立つ音としては水の雫の滴《したた》る音がするばかりで、他に何の異状もないように思われた。魯鈍《ろどん》無情の鴉《からす》の声が、道路傍の住家の屋根の上に明け方の薄霧《うすぎり》を綻《ほころ》ばして過ぎた。
 大溝の水は増したが、溢れるほどでもなく、ふだんのせせらぎはなみなみと充ちた水勢に大まかな流れとなって、かえって間が抜けていた。
「これなら、大したことはない」
 と復一は呟きながら念のためプールの方へ赤土路をよろめく跣足《はだし》の踵《かかと》に寝まきの裾《すそ》を貼り付かせ、少しだらだらと踏み下ろして行った。
 プールが目に入ると、復一はひやりとして、心臓は電撃を受けたような衝動を感じた。
 小径の途中の土の層から大溝の浸《し》み水が洩《も》れ出て、音もなく平に、プールの葭簾を撫《な》で落し、金網《かなあみ》を大口にぱくりと開けてしまっている。プールに流れ入った水勢は底に当って、そこから弾き上り、四方へ流れ落ちて、プールの縁から天然の湧き井の清水のように溢れ落ちていた。
 復一が覗くと、底の小石と千切られた藻の根だけ鮮かに、金魚は影も形も見えなかった。
 復一はかっとなって、端の綴《と》じが僅《わず》か残っている金網を怒《いか》りの足で蹴《け》り放った。その拍子《ひょうし》に跣足の片足を赤土に踏み滑らし、横倒しになると、坂になっている小径を滝《たき》のように流れている水勢が、骨と皮ばかりになっている復一を軽々と流し、崖下の古池の畔《ほとり》まで落して来た。復一はようやくそこの腐葉土《ふようど》のぬかるみで、危《あやう》く踏み止まった。
 年来理想の新種を得るのにまだまだ幾多の交媒と工夫を重ねなければならない前途|暗澹《あんたん》たる状態であるのに、今またプールの親金魚をこの水で失くすとすれば、十四年の苦心は水の泡《あわ》になって、元も子も失くしてしまう。復一は精も根も一度に尽き果て、洞窟《どうくつ》のように黒く深まる古池の傍にへたへたと身を崩折らせ、しばらく意識を喪失《そうしつ》していた。
 しばらくして復一が意識を恢復《かいふく》して来ると、天地は薔薇色に明け放たれていて、谷窪の万象は生々の気を盆地一ぱいに薫《かお》らしている。輝《かがや》く蒼空をいま漉《す》き出すように頭上の薄膜《はくまく》の雲は見る見る剥《はが》れつつあった。
 何という新鮮で濃情な草樹の息づかいであろう。緑も樺《かば》も橙《だいだい》も黄も、その葉の茂みはおのおのその膨らみの中に強い胸を一つずつ蔵していて、溢れる生命に喘いでいるように見える。しどろもどろの叢《くさむら》は雫の露《つゆ》をぶるぶる振り払いつつ張って来た乳房《ちぶさ》のような俵形にこんもり形を盛り直している。
 耳の注意を振り向けるあらゆるところに、潺湲《せんかん》の音が自由に聴き出され、その急造の小|渓流《けいりゅう》の響きは、眼前に展開している自然を、動的なものに律動化し、聴き澄している復一を大地ごと無限の空間に移して、悠久に白雲上へ旅させるように感じさせる。
 もろもろの陰は深い瑠璃色《るりいろ》に、もろもろの明るみはうっとりした琥珀色《こはくいろ》の二つに統制されて来ると、道路側の瓦《かわら》屋根の一角がたちまち灼熱《しゃくねつ》して、紫白《しはく》の光芒《こうぼう》を撥開《はっかい》し、そこから縒《よ》り出す閃光のテープを谷窪のそれを望むものものに投げかけた。
 鏡面を洗い澄ましたような初秋の太陽が昇ったのだ。小鳥の鳴声が今更賑わしく鮮明な空間の壁絨《へきじゅう》をあっちへこっちへ縫いつつ飛ぶ。
 極度の緊張に脳貧血を起していったん意識を喪《うしな》い、再び恢復して来たときの復一の心身は、ただ一|箇《こ》の透明《とうめい》な観照体となって、何も思い出さず、何も考えず、ただ自然の美魅そのままを映像として映しとどめ、恍惚そのものに化していた。
 彼は七つの金魚池の青い歪《ゆが》みの型を、太古の巨獣《きょじゅう》の足跡のように感じ、ぼんやりとその地上の美しい斑点に見とれていた。陽が映り込んで来て、彼の意識もはっきりして来ると、すぐ眼の前の古池が、今始めて見る古洞《こどう》のように認められて来た。それは彼の出来損じの名魚たちを、売ることも嫌い、逃しもならぬままに、十余年間捨て飼いに飼っておいた古池で、宗十郎夫婦の情で、ときどき餌を与えられていたのであったが、夫婦の死後は誰も顧《かえりみ》るものもなく憐れな魚達は長く池の藻草や青みどろで生き続けていたのであった。この池の出来損いの異様な金魚を見ることは、失敗の痕《あと》を再び見るようなので、復一はほとんどこの古池に近寄らなかった。ときどきは鬱々《うつうつ》として生命を封付けられる恨《うら》みがましい生ものの気配《けは》いが、この半分|古菰《ふるこも》を冠った池の方に立ち燻《くすべ》るように感じたこともあるが、復一はそれを自分の神経衰弱から来る妄念《もうねん》のせいにしていた。
 いま、暴風のために古菰がはぎ去られ差込む朝陽で、彼はまざまざとほとんど幾年ぶりかのその古池の面を見た。その途端、彼の心に何かの感動が起ろうとする前に、彼は池の面にきっと眼を据え、強い息を肺いっぱいに吸い込んだ。……見よ池は青みどろで濃い水の色。そのまん中に撩乱として白紗《はくしゃ》よりもより膜性の、幾十筋の皺がなよなよと縺《もつ》れつ縺れつゆらめき出た。ゆらめき離れてはまた開く。大きさは両手の拇指《おやゆび》と人差指で大幅に一囲みして形容する白|牡丹《ぼたん》ほどもあろうか。それが一つの金魚であった。その白牡丹のような白紗の鰭には更に菫《すみれ》、丹《に》、藤《ふじ》、薄青等の色斑があり、更に墨色古金色等の斑点も交って万華鏡《まんげきょう》のような絢爛、波瀾を重畳《ちょうじょう》させつつ嬌艶に豪華《ごうか》にまた淑々として上品に内気にあどけなくもゆらぎ拡《ひろ》ごり拡ごりゆらぎ、更にまたゆらぎ拡ごり、どこか無限の遠方からその生を操られるような神秘な動き方をするのであった。復一の胸は張り膨らまって、木の根、岩角にも肉体をこすりつけたいような、現実と非現実の間のよれよれの肉情のショックに堪え切れないほどになった。
「これこそ自分が十余年間苦心|惨憺《さんたん》して造ろうとして造り得なかった理想の至魚だ。自分が出来損いとして捨てて顧みなかった金魚のなかのどれとどれとが、いつどう交媒して孵化して出来たか」
 こう復一の意識は繰り返しながら、肉情はいよいよ超大な魅惑に圧倒され、吸い出され、放散され、やがて、ただ、しんと心の底まで浸《し》み徹《とお》った一筋の充実感に身動きも出来なくなった。
「意識して求める方向に求めるものを得ず、思い捨てて放擲した過去や思わぬ岐路《きろ》から、突兀として与えられる人生の不思議さ」が、復一の心の底を閃めいて通った時、一度沈みかけてまた水面に浮き出して来た美魚が、その房々とした尾鰭をまた完全に展《ひら》いて見せると星を宿したようなつぶらな眼も球のような口許も、はっきり復一に真向った。
「ああ、真佐子にも、神魚華鬘之図にも似てない……それよりも……それよりも……もっと美しい金魚だ、金魚だ」
 失望か、否、それ以上の喜びか、感極まった復一の体は池の畔の泥濘《でいねい》のなかにへたへたとへたばった。復一がいつまでもそのまま肩で息を吐き、眼を瞑っている前の水面に、今復一によって見出された新星のような美魚は多くのはした[#「はした」に傍点]金魚を随《したが
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