《しゅういつ》の魚を出しかけた気配が記録によって覗《うかが》えることである。そして、そこに孕まれた金魚に望むところの人間の美の理想を、推理の延長によって、計ってみるのに、ほぼ大正時代に完成されている名魚たちに近い図が想定された。とはいえ、まだまだ現代の金魚は不完全であるほど昔の人間は美しい撩乱をこの魚に望んでいることが、復一に考えられた。世は移り人は幾代も変っている。しかし、金魚は、この喰べられもしない観賞魚は、幾分の変遷《へんせん》を、たった一つのか弱い美の力で切り抜けながら、どうなりこうなり自己完成の目的に近づいて来た。これを想うに人が金魚を作って行くのではなく、金魚自身の目的が、人間の美に牽かれる一番弱い本能を誘惑し利用して、着々、目的のコースを進めつつあるように考えられる。逞ましい金魚――そう気づくと復一は一種の征服慾さえ加っていよいよ金魚に執着して行った。
夏中、視察に歩いて、復一が湖畔の宿へ落付いた半ケ月目、関東の大震災《だいしんさい》が報ぜられた。復一は始めはそれほどとも思わなかった。次に、これはよほど酷《ひど》いと思うようになった。山の手は助《たすか》ったことが判ったが、とにかく惨澹《さんたん》たる東京の被害実状が次々に報ぜられた。復一は一応東京へ帰ろうかと問い合せた。
「ソレニハオヨバヌ」という返電が、ようやく十日ほど経って来て、復一はやっと安心した。
鼎造から金魚に関する事務的の命令やら照会やらが復一へ頻々《ひんぴん》と来だした。
復一が、こういう災害の時期に、金魚のような遊戯的《ゆうぎてき》のものには、もう、人は振り向かないだろうと、心配して問合わせてやると、鼎造からこう云って来た。
「古老の話によると、旧幕以来、こういう災害のあとには金魚は必ず売れたものである。荒《あら》びすさんだ焼跡《やけあと》の仮小屋の慰藉《いしゃ》になるものは金魚以外にはない。東京の金魚業一同は踏み止まって倍層商売を建て直すことに決心した」
これは商売人一流の誇張に過ぎた文面かと、復一は多少疑っていたが、そうでもなかった。二割方の値上げをして売出した金魚は、たちまち更に二割の値上げをしても需要に応じ切れなくなった。
下町方面の養魚池はほとんど全滅したが、山の手は助かった。それに関西地方から移入が出来るので、金魚そのものには不自由しなかったが、金魚桶の焼失は大打撃であった。持ち合せているものはこれを仲間に分配し、人を諸方に出して急造させた。
関西方面からの移入、桶の註文、そんな用事で、復一はなおしばらく関西にとどまらなければならなかった。
ようやく、鼎造から呼び戻されて、四年振りで復一は東京に帰ることが出来た。論文はついに完成しなかった。復一よりも単純な研究で定期間に済んだ同期生たちは半年前の秋に論文が通過して、試験所研究生終了の証書を貰ってそれぞれ約定済の任地へ就職して行った。彼は、鼎造にしばらく帰京の猶予《ゆうよ》を乞《こ》うて、論文を纏《まと》めれば纏められないこともなかったが、そんな小さくまとまった成功が今の自分の気持ちに、何の関係があるかと蔑《さげす》まれた。早くわが池で、わが腕で、真佐子に似た撩乱の金魚を一ぴきでも創り出して、凱歌《がいか》を奏したい。これこそ今、彼の人生に残っている唯一の希望だ、――彼が初め、いままでの世になかった美麗な金魚の新種を造り出す覚悟をしたのは、ひたすら真佐子の望みのために実現しようとした覚悟であった。だが年月の推移につれ研究の進むにつれ、彼の心理も変って行った。彼は到底現実の真佐子を得られない代償《だいしょう》としてほとんど真佐子を髣髴《ほうふつ》させる美魚を創造したいという意慾がむしろ初めの覚悟に勝って来た。漂渺とした真佐子の美――それは豊麗な金魚の美によって髣髴するよりほかの何物によってもなし得ない。今や復一の研究とその効果の実現はますます彼の必死な生命的事業となって来ていたのである。
それを想うとき、彼は疲れ切って夜中の寝床に横わりながらでも闇の中に爛々《らんらん》と光る眼を閉じることが出来なかった。
「馬鹿だよ、君。君の研究を論文にでも纏めれば世界的に金魚学者たちの参考になるんだからなあ――」
まだ未練気にそう云ってる不機嫌《ふきげん》の教授に訣れを告げて、復一は中途退学の形で東京に帰った。未完成の草稿《そうこう》を焼き捨てるとか、湖中へ沈めるとかいう考えも浮ばないではなかったが、それほど華やかな芝居気《しばいぎ》さえなくなっていて、ただ反古《ほご》より、多少惜しいぐらいの気持ちで、草稿は鞄《かばん》の中へ入れて持ち帰った。
地震の翌年の春なので、東京の下町はまだ酷《ひど》かったが、山の手は昔に変りはなかった。谷窪の家には、湧き水の出場所が少し変ったというので棕梠縄《しゅろなわ》の繃帯《ほうたい》をした竹樋《たけどい》で池の水の遣り繰りをしてあった。
帰宅と帰任とを兼ねたような挨拶《あいさつ》をしに、復一は崖を上って崖邸の家を訊ねた。
鼎造は復一が関西からの金魚輸送の労を謝した後云った。
「実は、調子に乗って鯉《こい》と鰻《うなぎ》の養殖にも手を出しかけているんだが、人任せでうまく行かないんだ。同じ淡水産のものだからそう違うまい。君に一つその方の面倒を見て貰おうか。この方が成功すれば、金魚と違って食糧品《しょくりょうひん》だから販路はすばらしく大きいのだ」
もちろん復一は言下に断った。
「だめですね。詩を作るものに田を作れというようなもんです。そればかりでなく、お願いしておきますが、僕には最高級の金魚を作る専門の方をやらせて下さい。これなら、命と取り換えっこのつもりでやりますから」
「僕は家内も要らなければ、子孫を遺す気もありません。素晴らしく豊麗な金魚の新種を創り出す――これが僕の終生の望みです。見込み違いのものに金をつぎ込んだと思われたら、非常にお気の毒ですが」
復一の気勢を見て、動かすべからざることを悟《さと》った鼎造は、もう頭を次に働かせて、彼のこの執着をまた商売に利用する手段もないことはあるまいと思い返した。
「面白い。やりたまえ。君が満足するものが出来るまで、僕も、催促《さいそく》せずに待つことにしよう」
鼎造自身も、自分の豪放《ごうほう》らしい言葉に、久し振りに英雄的な気分になれたらしく、上機嫌になって、晩めしを一しょに喰いたいけれども、外《はず》せぬ用事があるからと断って、真佐子と婿に代理をさせようと、女中に呼びにやらして、自分は出て行った。
復一に、何となく息の詰まる数分があって、やがて、応接間のドアが半分開かれ、案外はにかんだ顔の真佐子が、斜に上半身を現した。
「しばらく」
そして、容易には中に入って来なかった。復一は永い間|渇《かっ》していた好みのものは、見ただけで満足されるという康《やす》らいだ溜息《ためいき》がひとりでに吐かれるのを自分で感じ、無条件に笑顔を取り交わしたい、孤独の寂しさがつき上げて来たが、何ものかがそれをさせなかった。それをしたら、即座《そくざ》に彼女の魅力の膝下《しっか》に踏まえられて、せっかく、固持して来た覚悟を苦もなく渫《さら》って行かれそうな予感が彼を警戒さしたのであろう。彼の意地はむしろ彼女の思いがけない弱気を示した態度につけ込んで、出来るだけの強味と素気なさを見せていようと度胸を極《き》めた。彼は苦労した年嵩《としかさ》の男性の威を力み出すようにして「お入りなさい。なぜ入らないのです」といった。
彼女は子供らしく、一度ちょっとドアの蔭へ顔を引込ませ、今度改めてドアを公式に開けて入って来たときは、胸は昔のごとく張り、据《すわ》り方にゆるぎのない頸つき、昔のように漂渺とした顔の唇には蜂蜜《はちみつ》ほどの甘みのある片笑いで、やや尻下りの大きな眼を正眼に煙らせて来た。眉《まゆ》だけは時代風に濃く描いていた。復一はもう伏目勝《ふしめがち》になって、気合い負けを感じ、寂しく孤独の殻《から》の中に引込まねばならなかった。
「しばらく、ずいぶん痩せたわね」
しかし、彼女は云うほど復一を丁寧に観察したのでもなかった。
「ええ。苦労しましたからね」
「そう。でも苦労するのは薬ですってよ」
それからしばらく話は地震のことや、復一のいた湖の話に外《そ》れた。
「金魚、いいの出来た?」
これに返事することは、今のところいろいろの事情から、復一には困難だった。勇気を起して復一は逆襲《ぎゃくしゅう》した。
「お婿《むこ》さん、どうです」
「別に」
彼女はちょっと窓から、母屋の縁外の木の茂《しげ》みを覗って
「いま、いないのよ。バスケットボールが好きで、YMCAへ行って、お夕飯ぎりぎりでなきゃ帰って来ないの、ほほほ」
子供のように夫を見做《みな》しているような彼女の口振りに、夫を愛していないとも受取れない判断を下すことは、復一に取ってとても苦痛だった。進んで子供のことなぞ訊けなかった。
「ご紹介してもあなたには興味のないらしい人よ」
それは本当だと思った。自分の偶像であるこの女を欠き砕《くだ》かない夫ならそれで充分《じゅうぶん》としなければならない。その程度の夫なら、むしろ持っていてくれる方が、自分は安心するかも知れない。
「ときどきものを送って下さって有難う」
「これは湖のそばで出来た陶《とう》ものです」
復一は紙包《かみづつみ》を置いて立ち上った。
「まあ、お気の毒ね。復一さんが帰ってらして私も心強くなりますわよ」
復一は逢《あ》ってみれば平凡な彼女に力抜けを感じた。どうして自分が、あんな女に全生涯までも影響されるのかと、不思議に感じた。薄暗くなりかけの崖の道を下りかけていると、晩鶯《ばんおう》が鳴き、山吹《やまぶき》がほろほろと散った。復一はまたしてもこどもの時真佐子の浴せた顎の裏の桜の花びらを想い起し、思わずそこへ舌の尖をやった。何であろうと自分は彼女を愛しているのだ。その愛はあまりに惑《まど》って宙に浮いてしまってるのだ。今更、彼女に向けて露骨《ろこつ》に投げかけられるものでもなし、さればと云って胸に秘め籠めて置くにも置かれなくなっている。やっぱり手慣れた生きものの金魚で彼女を作るより仕方がない。復一はそこからはるばる眼の下に見える谷窪の池を見下して、奇矯《ききょう》な勇気を奮い起した。
谷窪の家の庭にささやかながらも、コンクリート建ての研究室が出来、新式の飼育のプールが出来てみれば、復一には楽しくないこともなかった。彼は親類や友人づきあいもせず一心不乱に立て籠った。崖屋敷の人達にも研究を遂《と》げる日までなるべく足を向けてもらわぬようそれとなく断っておいた。
「表面に埋《う》もれて、髄《ずい》のいのちに喰い込んで行く」
そういう実の入った感じが無いでもなかった。自分の愛人を自分の手で創造する……それはまたこの世に美しく生れ出る新らしい星だ……この事は世界の誰も知らないのだ。彼は寂しい狭い感慨《かんがい》に耽《ふけ》った。彼は郡山の古道具屋で見付けた「神魚華鬘之図《しんぎょけまんのず》」を額縁に入れて壁に釣りかけ、縁側に椅子《いす》を出して、そこから眺めた。初夏の風がそよそよと彼を吹いた。青葉の揮発性の匂いがした。ふと彼は湖畔の試験所に飼われてある中老美人のキャリコを新らしい飼手がうまく養っているかが気になった。
「あんな旧《ふる》いものは見殺しにするほどの度胸がなければ、新しいものを創生する大業は仕了《しお》わせられるものではない。」
ついでにちらりと秀江の姿が浮んだ。
彼はわざとキャリコが粗腐病にかかって、身体が錆《さび》だらけになり、喘《あえ》ぐことさえ出来なくなって水面に臭《くさ》く浮いている姿を想像した。ついでにそれが秀江の姿でもあることを想像した。すると熱いものが脊髄《せきずい》の両側を駆け上って、喉元《のどもと》を切なく衝《つ》き上げて来る。彼は唇を噛んでそれを顎の辺で喰い止めた。
「おれは平気だ」と云った。
その歳は金魚の交媒には多少季遅れであり、ま
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