りとして、人も無げに、無限をぱくぱく食べて、ふんわり見えて、どこへでも生の重点を都合よくすいすい置き換え、真の意味の逞ましさを知らん顔をして働かして行く、非現実的でありながら「生命」そのものである姿をつくづく金魚に見るようになった。復一は「はてな」と思った。彼は子供のときから青年期まで金魚屋に育って、金魚は朝、昼、晩、見飽《みあ》きるほど見たのだが、蛍《ほたる》の屑《くず》ほどにも思わなかった。小さいかっぱ虫に鈍《にぶ》くも腹に穴を開けられて、青みどろの水の中を勝手に引っぱられて行く、脆《もろ》いだらしのない赤い小布の散らばったものを金魚だと思っていた。七つ八つの小池に、ほとんどうっちゃり飼いにされながら、毎年、池の面が散り紅葉で盛り上るように殖《ふ》えて、種の系続を努めながら、剰った魚でたいして生活力がありそうもない復一親子三人をともかく養って来た駄金魚を、何か実用的な木《こ》っ葉《ぱ》か何かのように思っていた。
もっとも復一の養父は中年ものだけに、あまり上等の金魚は飼育出来なかった。せいぜい五六年の緋鮒《ひぶな》ぐらいが高価品で、全くの駄金魚屋だった。この試験所へ来て復一は見本に飼われてある美術品の金魚の種類を大体知った。蘭鋳、和蘭《オランダ》獅子頭《ししがしら》はもちろんとして、出目《でめ》蘭鋳、頂点眼《ちょうてんがん》、秋錦、朱文錦《しゅぶんきん》、全蘭子、キャリコ、東錦、――それに十八世紀、ワシントン水産局の池で発生してむこうの学者が苦心の結果、型を固定させたという由緒《ゆいしょ》付の米国生れの金魚、コメット・ゴールドフィッシュさえ備えられてあった。この魚は金魚よりむしろ闘魚《とうぎょ》に似て活溌《かっぱつ》だった。これ等《ら》の豊富な標本魚は、みな復一の保管の下に置かれ、毎日昼前に復一がやる餌を待った。
水を更《か》えてやると気持よさそうに、日を透けて着色する長い虹《にじ》のような脱糞《だっぷん》をした。
研究が進んで来ると復一は、試験所の研究室と曲もの細工屋の離《はなれ》の住家とを黙々として往復する以外は、だんだん引籠《ひきこも》り勝ちになった。復一が引籠り勝ちになると湖畔の娘からはかえって誘《さそ》い出しが激しくなった。
娘は半里ほど湖上を渡って行く、城のある出崎の蔭に浮網《うきあみ》がしじゅう干してある白壁《しらかべ》の蔵を据えた魚漁家の娘だった。
この大きな魚漁家の娘の秀江は、疳高《かんだか》でトリックの煩《わずら》わしい一面と、関西式の真綿《まわた》のようにねばる女性の強みを持っていた。
試験所から依頼《いらい》されているのだが、湖から珍らしい魚が漁《と》れても、受取りの係である復一は秀江の家へ近頃はちっとも来ないのである。そして代りの学生が来る。秀江はどうせ復一を、末《すえ》始終《しじゅう》まで素直《すなお》な愛人とは思っていなかった。いよいよ男の我壗《わがまま》が始まったか、それとも、何か他の事情かと判断を繰り返しながら、いろいろ探りを入れるのであった。幹事である兄に勧めて青年漁業講習会の講師に復一を指名して出崎の村へ二三日ばかり呼び寄せようとしてみたり、兄の子を唆《そその》かして、あどけない葉書を復一に送らせ、その返事振りから間接に復一の心境を探ろうとしたりした。彼女自身手紙を出したり、電話をかけても、復一から実のある返事が得られそうな期待は薄《うす》くなった。彼女は兄夫婦の家の家政婦の役を引受けて、相当に切廻《きりまわ》していた。彼女と復一との噂《うわさ》は湖畔に事実以上に拡《ひろが》っているので、試験所の界隈へは寄りつけなかった。
「東京を出てからもう二年目の秋だな」
復一は、鏡のように凪《な》いだ夕暮前の湖面を見渡しながら、モーターボートの纜《ともづな》を解いた。対岸の平沙《へいさ》の上にM山が突兀《とつこつ》として富士型に聳《そび》え、見詰めても、もう眼が痛くならない光の落ちついた夕陽が、銅の襖《ふすま》の引手のようにくっきりと重々しくかかっている。エンジンを入れてボートを湖面に滑《すべ》り出さすと、鶺鴒《せきれい》の尾のように船あとを長くひき、ピストンの鼓動《こどう》は気のひけるほど山水の平静を破った。
復一の船が海水浴場のある対岸の平沙の鼻に近づくと湖は三叉《さんさ》の方向に展開しているのが眺め渡された。左手は一番広くて袋《ふくろ》なりに水は奥へ行くほど薄れた懐《ふところ》を拡げ、微紅《びこう》の夕靄《ゆうもや》は一層水面の面積を広く見せた。右手は、蘆《あし》の洲《す》の上に漁家の見える台地で、湖の他方の岐入と、湖水の唯一《ゆいいつ》の吐け口のS川の根元とを分っている。S川には汽車の鉄橋と、人馬の渡る木造の橋とが重なり合って眺められ、汽車が煙を吐きながら鉄橋を通ると、すべての景色が玩具《がんぐ》染《じ》みて見えた。
復一は、平沙の鼻の渚《なぎさ》近くにボートを進ませたが、そこは夕方にしては珍らしく風当りが激しくて海のように菱波《ひしなみ》が立ち、はす[#「はす」に傍点]の魚がしきりに飛んだ。風を除《よ》けて、湖の岐入の方へ流れ入ると、出崎の城の天主閣《てんしゅかく》が松林《まつばやし》の蔭から覗き出した。秀江の村の網手の影が眼界に浮《うか》び上って来たのである。結局、いつもの通り、湖の岐入とS川との境の台地下へボートを引戻《ひきもど》し、蘆洲の外の馴染《なじみ》の場所に舶《と》めて、復一は湖の夕暮に孤独《こどく》を楽しもうとした。
復一はボートの中へ仰向《あおむ》けに臥《ね》そべった。空の肌質《きじ》はいつの間にか夕日の余燼《ほとぼり》を冷《さ》まして磨《みが》いた銅鉄色に冴《さ》えかかっていた。表面に削《けず》り出しのような軽く捲《ま》く紅いろの薄雲が一面に散っていて、空の肌質がすっかり刀色に冴えかえる時分を合図のようにして、それ等の雲はかえって雲母《うんも》色に冴えかえって来た。復一はふと首を擡《もた》げてみると、まん丸の月がO市の上に出ていた。それに対してO市の町の灯の列はどす赤く、その腰を屏風《びょうぶ》のように背後の南へ拡がるじぐざぐの屏嶺《へいれい》は墨色《すみいろ》へ幼稚《ようち》な皺《しわ》を険立たしている。
対岸の渚の浪《なみ》の音が静まって、ぴちょりぴょんという、水中から水の盛り上る音が復一の耳になつかしく聞えた。湖水のここは、淵《ふち》の水底からどういう加減か清水《しみず》が湧き出し、水が水を水面へ擡げる渦《うず》が休みなく捲き上り八方へ散っている。湖水中での良質の水が汲《く》まれるというのでここを「もくもく」と云い、京洛《けいらく》の茶人はわざわざ自動車で水を汲ませに寄越す。情死するため投身した男女があったが、どうしても浮き上って死ねなかったという。いろいろな特色から有名な場所になっている。
この周囲の泥沙《でいさ》は柳《やなぎ》の多いところで、復一は金魚に卵を産みつけさせる柳のひげ[#「ひげ」に傍点]根を摂《と》りに来てここを発見した。
「生命感は金魚に、恋のあわれは真佐子に、肉体の馴染みは秀江に。よくもまあ、おれの存在は器用に分裂《ぶんれつ》したものだ」
もくもくの水の湧き上る渦の音を聞いて復一の孤独が一層批判の焦点《しょうてん》を絞り縮めて来た。
復一は半醒《はんせい》半睡《はんすい》の朦朧《もうろう》状態で、仰向けに寝ていた。朦朧とした写真の乾板《かんぱん》色の意識の板面に、真佐子の白い顔が大きく煙る眼だけをつけてぽっかり現れたり、金魚の鰭《ひれ》だけが嬌艶《きょうえん》な黒斑を振り乱して宙に舞ったり、秀江の肉体の一部が嗜味《しみ》をそそる食品のように、なまなましく見えたりした。これ等は互《たが》い違いに執拗《しつこ》く明滅《めいめつ》を繰り返すが、その間にいくつもの意味にならない物の形や、不必要に突き詰《つ》めて行くあだな考えや、ときどきぱっと眼を空に開かせるほど、光るものを心にさしつける恐迫《きょうはく》観念などが忙《いそが》しく去来して、復一の頭をほどよく疲《つか》らして行った。
いつか復一の身体は左へ横向きにずった。そして傾いたボートの船縁《ふなべり》からすれすれに、蒼冥《そうめい》と暮《く》れた宵色の湖面が覗かれた。宵色の中に当って平沙の渚に、夜になるほど再び捲き起るらしい白浪が、遠近の距離感を外れて、ざーっざーっと鳴る音と共に、復一の醒《さ》めてまた睡《ねむ》りに入る意識の手前になり先になりして、明暗の界のも一つの仲間の世界に復一を置く。すると、復一の朦朧とした乾板色の意識が向うの宵色なのか、向うの宵色の景色が復一の意識なのか不明瞭《ふめいりょう》となり、不明瞭のままに、澱《よど》み定まって、そこには何でも自由に望みのものが生れそうな力を孕《はら》んだ楽しい気分が充ちて来た。
復一の何ものにも捉《とら》われない心は、夢うつつに考え始めた――希臘《ギリシア》の神話に出て来る半神半人の生《いき》ものなぞというものは、あれは思想だけではない、本当に在るものだ。現在でもこの世に生きているとも云える。現実に住み飽きてしまったり、現実の粗暴《そぼう》野卑《やひ》に愛憎《あいぞう》をつかしたり、あまりに精神の肌質《きめ》のこまかいため、現実から追い捲くられたりした生きものであって、死ぬには、まだ生命力があり過ぎる。さればといって、神や天上の人になるには稚気があって生活に未練を持つ。そういう生きものが、この世界のところどころに悠々と遊んでいるのではあるまいか。真佐子といい撩乱な金魚といい生命の故郷はそういう世界に在って、そして、顔だけ現実の世界に出しているのではないかしらん。そうでなければ、あんな現実でも理想でもない、中間的の美しい顔をして悠々と世の中に生きていられるはずはない。そういえば真佐子にしろ金魚にしろ、あのぽっかり眼を開いて、いつも朝の寝起きのような無防禦《むぼうぎょ》の顔つきには、どこか現実を下目に見くだして、超人的《ちょうじんてき》に批判している諷刺的《ふうしてき》な平明がマスクしているのではないか……。復一はまたしても真佐子に遇《あ》いたくて堪《たま》らなくなった。
浪の音がやや高くなって、中天に冴えて来た月光を含む水煙がほの白く立ち籠《こ》めかかった湖面に一|艘《そう》の船の影が宙釣《ちゅうづ》りのように浮び出して来た。艫《ろ》の音が聞えるから夢ではない。近寄って艫を漕《こ》ぐ女の姿が見えて来た。いよいよ近く漕ぎ寄って来た。片手を挙げて髪《かみ》のほつれを掻き上げる仕草が見える。途端《とたん》に振り上げた顔を月光で検《あらた》める。秀江だ。復一は見るべからざるものを見まいとするように、急いで眼を瞑《つぶ》った。
女の船の舳《へさき》は復一のボートの腹を擦《す》った。
「あら、寝てらっしゃるの」
「………」
「寝てんの?」
漕ぎ寄せた女は、しばらく息を詰めて復一のその寝顔を見守っていた。
「うちの船が二三艘帰って来て、あなたが一人でもくもくへ月見にモーターで入らしってるというのよ。だから押しかけて来たわ」
「それはいい。僕は君にとても会いたかった」
女は突然《とつぜん》愛想よく云われたのでそれをかえって皮肉にとった。
「なにを寝言いってらっしゃるの。そんないやがらせ云ったって、素直に私帰りませんけれど、もし寝言のふりしてあたしを胡麻化《ごまか》すつもりなら、はっきりお断りしときますが、どうせあたしはね。東京の磨いたお嬢さんとは全然|較《くら》べものにはならない田舎《いなか》の漁師の娘の……」
「馬鹿《ばか》、黙《だま》りたまえ!」
復一は身じろぎもせず、元の仰向けの姿勢のままで叫んだ。その声が水にひびいて厳しく聞えたので女はぴくりとした。
「僕は君のように皮肉の巧《うま》い女は嫌《きら》いだ。そんなこと喋《しゃべ》りに来たのなら帰りたまえ」
恥辱と嫉妬《しっと》で身を慄《ふる》わす女の様子が瞑目《めいもく》している復一にも感じられた。
噎《むせ》ぶのを堪《こら》え、涙を飲み落す秀
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