がした。
「復一さんは、どうしても金魚屋さんになるつもり」
 真佐子は隣《となり》に復一がいるつもりで、何気なく、相手のいない側を向いて訊《たず》ねた。ひと足遅れていた復一は急いでこの位置へ進み出て並んだ。
「もう少し気の利いたものになりたいんですが、事情が許しそうもないのです」
「張合のないことおっしゃるのね。あたしがあなたなら嬉《よろこ》んで金魚屋さんになりますわ」
 真佐子は漂渺《ひょうびょう》とした、それが彼女《かのじょ》の最も真面目《まじめ》なときの表情でもある顔付をして復一を見た。
「生意気なこと云うようだけれど、人間に一ばん自由に美しい生きもの[#「生きもの」に傍点]が造れるのは金魚じゃなくて」
 復一は不思議な感じがした。今までこの女に精神的のものとして感じられたものは、ただ大様《おうよう》で贅沢《ぜいたく》な家庭に育った品格的のものだけだと思っていたのに、この娘から人生の価値に関係して批評めく精神的の言葉を聞くのである。ほんの散歩の今の当座の思い付きであるのか、それとも、いくらか考えでもした末の言葉か。
「そりゃ、そうに違いありませんけれど、やっぱりたかが金魚ですからね」
 すると真佐子は漂渺とした顔付きの中で特に煙る瞳を黒く強調させて云った。
「あなたは金魚屋さんの息子《むすこ》さんの癖に、ほんとに金魚の値打ちをご承知ないのよ。金魚のために人間が生き死にした例がいくつもあるのよ」
 真佐子は父から聴いた話だといって話し出した。
 その話は、金魚屋に育った復一の方が、おぼろげに話す真佐子よりむしろ詳《くわ》しく知っていたのであるが、真佐子から云われてみて、かえって価値的に復一の認識に反覆《はんぷく》されるのであった。事実はざっとこうなのである。
 明治二十七八年の日清戦役後の前後から日本の金魚の観賞熱はとみに旺盛《おうせい》となった。専門家の側では、この機に乗じて金魚商の組合を設けたり、アメリカへ輸出を試みたりした。進歩的の金魚商は特に異種の交媒《こうばい》による珍奇《ちんき》な新魚を得て観賞需要の拡張を図ろうとした。都下砂村の有名な金魚飼育商の秋山が蘭鋳からその雄々《おお》しい頭の肉瘤《にくりゅう》を採り、琉金《りゅうきん》のような体容の円美と房々《ふさふさ》とした尾《お》を採って、頭尾二つとも完美な新種を得ようとする、ほとんど奇蹟《きせき》にも等しい努力を始めて陶冶《とうや》に陶冶を重ね、八ケ年の努力の後、ようやく目的のものを得られたという。あの名魚「秋錦《しゅうきん》」の誕生《たんじょう》は着手の渾沌《こんとん》とした初期の時代に属していた。
 素人《しろうと》の熱心な飼育家も多く輩出《はいしゅつ》した。育てた美魚を競って品評会や、美魚の番附《ばんづけ》を作ったりした。
 その設備の費用や、交際や、仲に立って狡計《こうけい》を弄《ろう》する金魚ブローカーなどもあって、金魚のため――わずか飼魚の金魚のために家産を破り、流難|荒亡《こうぼう》するみじめな愛魚家が少からずあった。この愛魚家は当時において、ほとんど狂想《きょうそう》にも等しい、金魚の総《あら》ゆる種類の長所を選《よ》り蒐《あつ》めた理想の新魚を創成しようと、大掛りな設備で取りかかった。
 和金の清洒《せいしゃ》な顔付きと背肉の盛り上りを持ち胸と腹は琉金の豊饒《ほうじょう》の感じを保っている。
 鰭《ひれ》は神女の裳《も》のように胴《どう》を包んでたゆたい、体色は塗《ぬ》り立てのような鮮《あざや》かな五彩《ごさい》を粧《よそお》い、別《わ》けて必要なのは西班牙《スペイン》の舞妓《まいこ》のボエールのような斑黒点《はんこくてん》がコケティッシュな間隔《かんかく》で振り撒かれなければならなかった。
 超現実に美しく魅惑的《みわくてき》な金魚は、G氏が頭の中に描《えが》くところの夢《ゆめ》の魚ではなかった。交媒を重ねるにつれ、だんだん現実性を備えて来た。しかし、そのうちG氏の頭の方が早くも夢幻化《むげんか》して行った。彼は財力も尽《つ》きるといっしょに白痴《はくち》のようになって行衛《ゆくえ》知れずになった。「赫耶姫《かぐやひめ》!」G氏は創造する金魚につけるはずのこの名を呼びながら、乞食《こじき》のような服装《ふくそう》をして蒼惶《そうこう》として去った。半創成の畸形《きけい》な金魚と逸話《いつわ》だけが飼育家仲間に遺った。
「Gさんという人がもし気違いみたいにならないで、しっかりした頭でどこまでも科学的な研究でそういう理想の金魚をつくり出したのならまるで英雄《えいゆう》のように勇気のある偉《えら》い仕事をした方だと想《おも》うわ」
 そして絵だの彫刻《ちょうこく》だの建築だのと違って、とにかく、生きものという生命を材料にして、恍惚《こうこつ》とした美麗《びれい》な創造を水の中へ生み出そうとする事はいかに素晴《すばら》しい芸術的な神技であろう、と真佐子は口を極めて復一のこれから向おうとする進路について推賞するのであった。真佐子は、霊南坂《れいなんざか》まで来て、そこのアメリカンベーカリーへ入るまで、復一を勇気付けるように語り続けた。
 楼上《ろうじょう》で蛾《が》が一二匹シャンデリヤの澄《す》んだ灯のまわりを幽《かす》かな淋しい悩みのような羽音をたてて飛びまわった。その真下のテーブルで二人は静かに茶を飲みながら、復一は反対に訊いた。
「僕のこともですが。真佐子さんはどうなさるんですか。あなた自身のことについてどう考えているんです。あなたはもう学校も済んだし、そんなに美しくなって……」
 復一はさすがに云い淀《よど》んだ。すると真佐子は漂渺とした白い顔に少し羞《はじらい》をふくんで、両袖《りょうそで》を掻き合しながら云った。
「あたしですの。あたしは多少美しい娘かも知れないけれども、平凡《へいぼん》な女よ。いずれ二三年のうちに普通に結婚《けっこん》して、順当に母になって行くんでしょう」
「……結婚ってそんな無雑作なもんじゃないでしょう」
「でも世界中を調べるわけに行かないし、考え通りの結婚なんてやたらにそこらに在るもんじゃないでしょう。思うままにはならない。どうせ人間は不自由ですわね」
 それは一応絶望の人の言葉には聞えたが、その響《ひびき》には人生の平凡を寂しがる憾《うら》みもなければ、絶望から弾《は》ね上って将来の未知を既知《きち》の頁《ページ》に繰《く》って行こうとする好奇心《こうきしん》も情熱も持っていなかった。
「そんな人生に消極的な気持ちのあなたが僕のような煮《に》え切らない青年に、英雄的な勇気を煽《あお》り立てるなんてあなたにそんな資格はありませんね」
 復一は何にとも知れない怒《いか》りを覚えた。すると真佐子は無口の唇を半分噛んだ子供のときの癖を珍らしくしてから、
「あたしはそうだけれども、あなたに向うと、なんだかそんなことを勧めたくなるのよ。あたしのせいではなくて、多分、あなたがどこかに伏《ふ》せている気持ち――何だか不満のような気持ちがあたしにひびいて来るんじゃなくって、そしてあたしに云わせるんじゃなくて」
 しばらく沈黙《ちんもく》が続いた。復一は黙って真佐子に対《むか》っていると、真佐子の人生に無計算な美が絶え間なく空間へただ徒《いたず》らに燃え費されて行くように感じられた。愛惜《あいせき》の気持ちが復一の胸に沁《し》み渡ると、散りかかって来る花びらをせき留めるような余儀《よぎ》ない焦立《いらだ》ちと労《いたわ》りで真佐子をかたく抱《だ》きしめたい心がむらむらと湧き上るのだったが……。
 復一は吐息《といき》をした。そして
「静かな夜だな」
 というより仕方がなかった。

 復一が研究生として入った水産試験所は関西の大きな湖の岸にあった。Oという県庁所在地の市は夕飯後の適宜《てきぎ》な散歩|距離《きょり》だった。
 試験所前の曲《まげ》ものや折箱《おりばこ》を拵《こしら》える手工業を稼業《かぎょう》とする家の離《はな》れの小|座敷《ざしき》を借りて寝起きをして、昼は試験所に通い、夕飯後は市中へ行って、ビールを飲んだり、映画を見たりする単純な技術家気質の学生生活が始まった。研究生は上級生まで集めて十人ほどでかなり親密だった。淡水魚《たんすいぎょ》の、養殖《ようしょく》とか漁獲《ぎょかく》とか製品保存とかいう、専門中でも狭《せま》い専門に係る研究なので、来ている研究生たちは、大概《たいがい》就職の極《きま》っている水産物関係の官衙《かんが》や会社やまたは協会とかの委託生《いたくせい》で、いわば人生も生活も技術家としてコースが定められた人たちなので、朴々《ぼくぼく》としていずれも胆汁質《たんじゅうしつ》の青年に見えた。地方の人が多かった。それに較《くら》べられるためか、復一は際だった駿敏《しゅんびん》で、目端《めはし》の利く青年に見えた。専修科目が家畜魚類の金魚なのと、そういう都会人的の感覚のよさを間違って取って、同学生たちは復一を芸術家だとか、詩人だとか、天才だとか云って別格にあしらった。復一自身に取っては自分に一ばん欠乏もし、また軽蔑《けいべつ》もしている、そういうタイトルを得たことに、妙なちぐはぐな気持がした。
 担任の主任教授は、復一を調法にして世間的関係の交渉《こうしょう》には多く彼を差向けた。彼は幾つかのこの湖畔《こはん》の水産に関係ある家に試験所の用事で出入りをしているうち、その家々で二三人の年頃の娘とも知合いになった。都会の空気に憧憬《あこが》れる彼女等はスマートな都会青年の代表のように復一に魅着の眼を向けた。それは極めて実感的な刺戟を彼に与えた。同じような意味で彼は市中の酒場の女たちからも普通の客以上の待遇《たいぐう》を受けた。
 しかし、東京を離れて来て、復一が一ばん心で見直したというより、より以上の絆《きずな》を感じて驚いたのは、真佐子であった。
 真佐子の無性格――彼女はただ美しい胡蝶《こちょう》のように咲いて行く取り止めもない女、充《み》ち溢れる魅力はある、しかし、それは単に生理的のものでしかあり得ない。いうことは多少気の利いたこともいうが、機械人間が物言うように発声の構造が云っているのだ。でなければ何とも知れない底気味悪い遠方のものが云っているのだ。そうとしか取れない。多少のいやらしさ、腥《なまぐさ》さもあるべきはずの女としての魂、それが詰め込まれている女の一人として彼女は全面的に現れて来ない。情痴《じょうち》を生れながらに取り落して来た女なのだ。真佐子をそうとばかり思っていたせいか復一は東京を離れるとき、かえってさばさばした気がした。マネキン人形さんにはお訣れするのだ。非人間的な、あの美魔《びま》にはもうおさらばだ。さらば!
 と思ったのは、移転や新入学の物珍らしさに紛《まぎ》れていた一二ケ月ほどだけだった。湖畔の学生生活が空気のように身について来ると、習慣的な朝夕の起《お》き臥《ふ》しの間に、しんしんとして、寂しいもの、惜《お》しまれるもの、痛むものが心臓を掴《つか》み絞るのであった。雌花《めばな》だけでついに雄蕋《おしべ》にめぐり合うことなく滅《ほろ》びて行く植物の種類の最後の一花、そんなふうにも真佐子が感ぜられるし、何か大きな力に操られながら、その傀儡《かいらい》であることを知らないで無心で動いている童女のようにも真佐子が感ぜられるし、真佐子を考えるとき、哀《あわ》れさそのものになって、男性としての彼は、じっとしていられない気がした。そして、いかなる術も彼女の中身に現実の人間を詰めかえる術は見出しにくいと思うほど、復一の人生|一般《いっぱん》に対する考えも絶望的なものになって来て、その青寒い虚無感《きょむかん》は彼の熱苦るしい青年の野心の性体を寂しく快く染めて行き、静かな吐息を肺量の底を傾《かたむ》けて吐き出さすのだった。だが、復一はこの神秘性を帯びた恋愛にだんだんプライドを持って来た。
 それに関係があるのかないのか判《わか》らないが、復一の金魚に対する考えが全然変って行き、ねろ
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