の界隈へは寄りつけなかった。
「東京を出てからもう二年目の秋だな」
復一は、鏡のように凪《な》いだ夕暮前の湖面を見渡しながら、モーターボートの纜《ともづな》を解いた。対岸の平沙《へいさ》の上にM山が突兀《とつこつ》として富士型に聳《そび》え、見詰めても、もう眼が痛くならない光の落ちついた夕陽が、銅の襖《ふすま》の引手のようにくっきりと重々しくかかっている。エンジンを入れてボートを湖面に滑《すべ》り出さすと、鶺鴒《せきれい》の尾のように船あとを長くひき、ピストンの鼓動《こどう》は気のひけるほど山水の平静を破った。
復一の船が海水浴場のある対岸の平沙の鼻に近づくと湖は三叉《さんさ》の方向に展開しているのが眺め渡された。左手は一番広くて袋《ふくろ》なりに水は奥へ行くほど薄れた懐《ふところ》を拡げ、微紅《びこう》の夕靄《ゆうもや》は一層水面の面積を広く見せた。右手は、蘆《あし》の洲《す》の上に漁家の見える台地で、湖の他方の岐入と、湖水の唯一《ゆいいつ》の吐け口のS川の根元とを分っている。S川には汽車の鉄橋と、人馬の渡る木造の橋とが重なり合って眺められ、汽車が煙を吐きながら鉄橋を通ると、す
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