撃であった。持ち合せているものはこれを仲間に分配し、人を諸方に出して急造させた。
関西方面からの移入、桶の註文、そんな用事で、復一はなおしばらく関西にとどまらなければならなかった。
ようやく、鼎造から呼び戻されて、四年振りで復一は東京に帰ることが出来た。論文はついに完成しなかった。復一よりも単純な研究で定期間に済んだ同期生たちは半年前の秋に論文が通過して、試験所研究生終了の証書を貰ってそれぞれ約定済の任地へ就職して行った。彼は、鼎造にしばらく帰京の猶予《ゆうよ》を乞《こ》うて、論文を纏《まと》めれば纏められないこともなかったが、そんな小さくまとまった成功が今の自分の気持ちに、何の関係があるかと蔑《さげす》まれた。早くわが池で、わが腕で、真佐子に似た撩乱の金魚を一ぴきでも創り出して、凱歌《がいか》を奏したい。これこそ今、彼の人生に残っている唯一の希望だ、――彼が初め、いままでの世になかった美麗な金魚の新種を造り出す覚悟をしたのは、ひたすら真佐子の望みのために実現しようとした覚悟であった。だが年月の推移につれ研究の進むにつれ、彼の心理も変って行った。彼は到底現実の真佐子を得られない代償《だいしょう》としてほとんど真佐子を髣髴《ほうふつ》させる美魚を創造したいという意慾がむしろ初めの覚悟に勝って来た。漂渺とした真佐子の美――それは豊麗な金魚の美によって髣髴するよりほかの何物によってもなし得ない。今や復一の研究とその効果の実現はますます彼の必死な生命的事業となって来ていたのである。
それを想うとき、彼は疲れ切って夜中の寝床に横わりながらでも闇の中に爛々《らんらん》と光る眼を閉じることが出来なかった。
「馬鹿だよ、君。君の研究を論文にでも纏めれば世界的に金魚学者たちの参考になるんだからなあ――」
まだ未練気にそう云ってる不機嫌《ふきげん》の教授に訣れを告げて、復一は中途退学の形で東京に帰った。未完成の草稿《そうこう》を焼き捨てるとか、湖中へ沈めるとかいう考えも浮ばないではなかったが、それほど華やかな芝居気《しばいぎ》さえなくなっていて、ただ反古《ほご》より、多少惜しいぐらいの気持ちで、草稿は鞄《かばん》の中へ入れて持ち帰った。
地震の翌年の春なので、東京の下町はまだ酷《ひど》かったが、山の手は昔に変りはなかった。谷窪の家には、湧き水の出場所が少し変ったというので棕梠縄《しゅろなわ》の繃帯《ほうたい》をした竹樋《たけどい》で池の水の遣り繰りをしてあった。
帰宅と帰任とを兼ねたような挨拶《あいさつ》をしに、復一は崖を上って崖邸の家を訊ねた。
鼎造は復一が関西からの金魚輸送の労を謝した後云った。
「実は、調子に乗って鯉《こい》と鰻《うなぎ》の養殖にも手を出しかけているんだが、人任せでうまく行かないんだ。同じ淡水産のものだからそう違うまい。君に一つその方の面倒を見て貰おうか。この方が成功すれば、金魚と違って食糧品《しょくりょうひん》だから販路はすばらしく大きいのだ」
もちろん復一は言下に断った。
「だめですね。詩を作るものに田を作れというようなもんです。そればかりでなく、お願いしておきますが、僕には最高級の金魚を作る専門の方をやらせて下さい。これなら、命と取り換えっこのつもりでやりますから」
「僕は家内も要らなければ、子孫を遺す気もありません。素晴らしく豊麗な金魚の新種を創り出す――これが僕の終生の望みです。見込み違いのものに金をつぎ込んだと思われたら、非常にお気の毒ですが」
復一の気勢を見て、動かすべからざることを悟《さと》った鼎造は、もう頭を次に働かせて、彼のこの執着をまた商売に利用する手段もないことはあるまいと思い返した。
「面白い。やりたまえ。君が満足するものが出来るまで、僕も、催促《さいそく》せずに待つことにしよう」
鼎造自身も、自分の豪放《ごうほう》らしい言葉に、久し振りに英雄的な気分になれたらしく、上機嫌になって、晩めしを一しょに喰いたいけれども、外《はず》せぬ用事があるからと断って、真佐子と婿に代理をさせようと、女中に呼びにやらして、自分は出て行った。
復一に、何となく息の詰まる数分があって、やがて、応接間のドアが半分開かれ、案外はにかんだ顔の真佐子が、斜に上半身を現した。
「しばらく」
そして、容易には中に入って来なかった。復一は永い間|渇《かっ》していた好みのものは、見ただけで満足されるという康《やす》らいだ溜息《ためいき》がひとりでに吐かれるのを自分で感じ、無条件に笑顔を取り交わしたい、孤独の寂しさがつき上げて来たが、何ものかがそれをさせなかった。それをしたら、即座《そくざ》に彼女の魅力の膝下《しっか》に踏まえられて、せっかく、固持して来た覚悟を苦もなく渫《さら》って行かれそうな予感が彼を警戒さし
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