取ると、眼を開いたまま寝ていた小石の上の金魚中での名品キャリコは電燈の光に、眼を開いたまま眼を醒《さま》して、一ところに固《かたま》っていた二ひきが悠揚《ゆうよう》と連れになったり、離れたりして遊弋《ゆうよく》し出す。身長身幅より三四倍もある尾鰭《おびれ》は黒いまだらの星のある薄絹《うすぎぬ》の領布《ひれ》や裳《も》を振り撒き拡げて、しばらくは身体も頭も見えない。やがてその中から小肥《こぶと》りの仏蘭西《フランス》美人のような、天平《てんぴょう》の娘子のようにおっとりして雄大な、丸い銅と蛾眉《がび》を描いてやりたい眼と口とがぽっかりと現れて来る。
 二三年前、O市に水産共進会があって、その際、金牌《きんぱい》を獲《か》ち得たこの金魚の名品が試験所に寄附《きふ》されて、大事に育てられているのだ。すでに七八|歳《さい》になっているので、ちょっと中年を過ぎた落付きを持っているので、その魅力は垢脱《あかぬ》けがしていた。
 しばらく眺め入った後、復一は硝子鉢に元のように覆いをして、それから自分のもとの席に戻るとき、いまキャリコのしたと同じ身体の捻《ひね》り方を、しきりに繰返す。人に訊《き》かれると彼は笑って「金魚運動」と説明して、その健康法の功徳《くどく》を吹聴《ふいちょう》するが、この際、復一がそれをするとき、復一にはもっと秘《ひそ》んでいる内容的の力が精神肉体に恢復《かいふく》して来るのであった。復一はそれを決して誰にも説明しなかった。
 とにかく、深夜に、人が魚と同じリズムの動作のくねらせ方をするので、とても薄気味が悪かった。宿直の小使がいった。
「私が室に入るときだけは、あれ、やめて下さい。へんな気持ちになりますから」
 復一は関西での金魚の飼育地で有名な奈良《なら》大阪《おおさか》府県下を視察に廻った。奈良県下の郡山《こおりやま》はわけて昔《むかし》から金魚飼育の盛んな土地で、それは小藩《しょうはん》の関係から貧しい藩士の収入を補わせるため、藩士だけに金魚飼育の特権を与えて、保護|奨励《しょうれい》したためであった。
 この菜の花の平野に囲まれた清艶《せいえん》な小都市に、復一は滞在《たいざい》して、いろいろ専門学上の参考になる実地の経験を得たが、特に彼の心に響いたものは、この郡山の金魚は寛永《かんえい》年間にすでに新種を拵《こしら》えかけていて、以後しばしば秀逸《しゅういつ》の魚を出しかけた気配が記録によって覗《うかが》えることである。そして、そこに孕まれた金魚に望むところの人間の美の理想を、推理の延長によって、計ってみるのに、ほぼ大正時代に完成されている名魚たちに近い図が想定された。とはいえ、まだまだ現代の金魚は不完全であるほど昔の人間は美しい撩乱をこの魚に望んでいることが、復一に考えられた。世は移り人は幾代も変っている。しかし、金魚は、この喰べられもしない観賞魚は、幾分の変遷《へんせん》を、たった一つのか弱い美の力で切り抜けながら、どうなりこうなり自己完成の目的に近づいて来た。これを想うに人が金魚を作って行くのではなく、金魚自身の目的が、人間の美に牽かれる一番弱い本能を誘惑し利用して、着々、目的のコースを進めつつあるように考えられる。逞ましい金魚――そう気づくと復一は一種の征服慾さえ加っていよいよ金魚に執着して行った。
 夏中、視察に歩いて、復一が湖畔の宿へ落付いた半ケ月目、関東の大震災《だいしんさい》が報ぜられた。復一は始めはそれほどとも思わなかった。次に、これはよほど酷《ひど》いと思うようになった。山の手は助《たすか》ったことが判ったが、とにかく惨澹《さんたん》たる東京の被害実状が次々に報ぜられた。復一は一応東京へ帰ろうかと問い合せた。
「ソレニハオヨバヌ」という返電が、ようやく十日ほど経って来て、復一はやっと安心した。
 鼎造から金魚に関する事務的の命令やら照会やらが復一へ頻々《ひんぴん》と来だした。
 復一が、こういう災害の時期に、金魚のような遊戯的《ゆうぎてき》のものには、もう、人は振り向かないだろうと、心配して問合わせてやると、鼎造からこう云って来た。
「古老の話によると、旧幕以来、こういう災害のあとには金魚は必ず売れたものである。荒《あら》びすさんだ焼跡《やけあと》の仮小屋の慰藉《いしゃ》になるものは金魚以外にはない。東京の金魚業一同は踏み止まって倍層商売を建て直すことに決心した」
 これは商売人一流の誇張に過ぎた文面かと、復一は多少疑っていたが、そうでもなかった。二割方の値上げをして売出した金魚は、たちまち更に二割の値上げをしても需要に応じ切れなくなった。
 下町方面の養魚池はほとんど全滅したが、山の手は助かった。それに関西地方から移入が出来るので、金魚そのものには不自由しなかったが、金魚桶の焼失は大打
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