ころ真佐子から来た手紙はこうだった。
「あなたはいろいろ打ち明けて下さるのに私だまってて済みませんでした。私もう直《じ》きあかんぼを生みます。それから結婚します。すこし、前後の順序は狂《くる》ったようだけれど。どっちしたって、そうパッショネートなものじゃありません」
 復一はむしろ呆然《ぼうぜん》としてしまった。結局、生れながらに自分等のコースより上空を軽々と行く女だ。
「相手はご存じの三人の青年のうちの誰でもありません。もうすこしアッサリしていて、不親切や害をする質の男ではなさそうです。私にはそれでたくさんです」
 復一は、またしても、自分のこせこせしたトリックの多い才子《さいし》肌《はだ》が、無駄《むだ》なものに顧《かえり》みられた。この太い線一本で生きて行かれる女が現代にもあると思うとかえって彼女にモダニティーさえ感じた。
「何という事はないけれど、あなたもその方と結婚した方がよくはなくって。自分が結婚するとなると、人にも勧めたくなるものよ。けれども金魚は一生懸命《いっしょうけんめい》やってよ。素晴らしい、見ていると何もかも忘れてうっとりするような新種を作ってよ。わたしなぜだかわたしの生むあかんぼよりあなたの研究から生れる新種の金魚を見るのが楽しみなくらいよ。わたし、父にすすめていよいよ金魚に力を入れるよう決心さしたわ」
 これと前後して鼎造の手紙が復一に届いた。それには、正直に恐慌《きょうこう》以来の自家の財政の遣《や》り繰りを述べ、しかし、断然たる切り捨てによって小ぢんまりした陣形《じんけい》を立直すことが出来、従って今後は輸出産業の見込み百パーセントの金魚の飼育と販売に全資力を尽《つく》す方針を冷静に書いてあった。だから君は今後は単なる道楽の給費生ではなくて、商会の技師格として、事業の目的に隷属《れいぞく》して働いてもらいたい、給料として送金は増すことにする――
 復一は生活の見込が安定したというよりも、崖邸の奴等め、親子がかりで、おれを食いにかかったなと、むやみに反抗的の気持ちになった。
 復一は真佐子へも真佐子の父へも手紙の返事を出さず、金魚の研究も一時すっかり放擲《ほうてき》して、京洛を茫然《ぼうぜん》と遊び廻《まわ》った。だが一ケ月ほどして帰って来た時にはすでに復一の心にある覚悟《かくご》が決っていた。それはまだこの世の中にかつて存在しなかったような珍らしく美麗な金魚の新種をつくり出すこと、それを生涯の事業としてかかる自分を人知れぬ悲壮《ひそう》な幸福を持つ男とし、神秘な運命に掴まれた無名の英雄のように思い、命を賭《か》けてもやり切ろうという覚悟だった。それが結局崖邸の親子に利用されることになるのか――さもあらばあれ、それが到底自分にとって思い切れ無い真佐子の喜びともなれば、その喜びが真佐子と自分を共通に繋《つな》ぐ……。それにしてもあの非現実的な美女が非現実的な美魚に牽《ひ》かれる不思議さ、あわれさ。復一は試験室の窓から飴《あめ》のようにとろりとしている春の湖を眺めながら、子供のとき真佐子に喰わされた桜の花びらが上顎の奥にまだ貼り付いているような記憶を舌で舐《な》め返した。
「真佐子、真佐子」と名を呼ぶと、復一は自分ながらおかしいほどセンチメンタルな涙がこぼれた。
 復一の神経|衰弱《すいじゃく》が嵩《こう》じて、すこし、おかしくなって来たという噂が高まった。事実、しんしんと更《ふ》けた深夜の研究室にただ一人残って標品《プレパラート》を作っている復一の姿は物凄《ものすご》かった。辺りが森閑《しんかん》と暗い研究室の中で復一は自分のテーブルの上にだけ電燈を点《つ》けて次から次へと金魚を縦に割き、輪切にし、切り刻んで取り出した臓器を一面に撒乱《さんらん》させ、じっと拡大鏡で覗いたり、ピンセットでいじり廻したりして深夜に至るも、夜を忘れた一心不乱の態度が、何か夜の猛禽獣《もうきんじゅう》が餌を予想外にたくさん見付け、喰べるのも忘れて、しばらく弄《もてあそ》ぶ恰好《かっこう》に似ていた。切られた金魚の首は電燈の光に明るく透けてルビーのように光る目を見開き、口を思い出したように時々開閉していた。
 都会育ちで、刺戟に応じて智能《ちのう》が多方面に働き易く習性付けられた青年の復一が、専門の中でも専門の、しかも、根気と単調に堪えねばならない金魚の遺伝と生殖《せいしょく》に関してだけを研究することは自分の才能を、小さい焦点へ絞り狭《せば》めるだけでも人一倍骨が折れた。頬《ほお》も眼も窪ませた復一は、力も尽き果てたと思うとき、くったりして窓際へ行き、そこに並べてある硝子鉢《ガラスばち》の一つの覆《おお》いに手をかける。指先は冷血していて氷のようなのに、溜《たま》った興奮がびりびり指を縺《もつら》して慄えている。やっと覆いを
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