金魚撩乱
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)仔魚《しぎょ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|匹《ぴき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はか[#「はか」に傍点]
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 今日も復一はようやく変色し始めた仔魚《しぎょ》を一|匹《ぴき》二|匹《ひき》と皿《さら》に掬《すく》い上げ、熱心に拡大鏡で眺《なが》めていたが、今年もまた失敗か――今年もまた望み通りの金魚はついに出来そうもない。そう呟《つぶや》いて復一は皿と拡大鏡とを縁側《えんがわ》に抛《ほう》り出し、無表情のまま仰向《あおむ》けにどたりとねた。
 縁から見るこの谷窪《たにくぼ》の新緑は今が盛《さか》りだった。木の葉ともいえない華《はな》やかさで、梢《こずえ》は新緑を基調とした紅茶系統からやや紫《むらさき》がかった若葉の五色の染め分けを振《ふ》り捌《さば》いている。それが風に揺《ゆ》らぐと、反射で滑《なめ》らかな崖《がけ》の赤土の表面が金屏風《きんびょうぶ》のように閃《ひらめ》く。五六|丈《じょう》も高い崖の傾斜《けいしゃ》のところどころに霧島《きりしま》つつじが咲《さ》いている。
 崖の根を固めている一帯の竹藪《たけやぶ》の蔭《かげ》から、じめじめした草叢《くさむら》があって、晩咲《おそざ》きの桜草《さくらそう》や、早咲きの金蓮花《きんれんか》が、小さい流れの岸まで、まだらに咲き続いている。小流れは谷窪から湧《わ》く自然の水で、復一のような金魚|飼育商《しいくしょう》にとっては、第一に稼業《かぎょう》の拠《よ》りどころにもなるものだった。その水を岐《えだ》にひいて、七つ八つの金魚池があった。池は葭簾《よしず》で覆《おお》ったのもあり、露出《ろしゅつ》したのもあった。逞《たく》ましい水音を立てて、崖とは反対の道路の石垣《いしがき》の下を大溝《おおどぶ》が流れている。これは市中の汚水《おすい》を集めて濁《にご》っている。
 復一が六年前地方の水産試験所を去って、この金魚屋の跡取《あとと》りとして再び育ての親達に迎《むか》えられて来たときも、まだこの谷窪に晩春の花々が咲き残っていた頃《ころ》だった。
 復一は生れて地方の水産学校へ出る青年期までここに育ちながら、今更《いまさら》のように、「東京は山の手にこんな桃仙境《とうせんきょう》があるのだった」と気がついた。そしてこの谷窪を占《し》める金魚屋の主人になるのを悦《よろこ》んだ。だが、それから六年後の今、この柔《やわら》かい景色《けしき》や水音を聞いても、彼《かれ》はかえって彼の頑《かたくな》になったこころを一層|枯燥《こそう》させる反対の働きを受けるようになった。彼は無表情の眼《め》を挙げて、崖の上を見た。
 芝生《しばふ》の端《はし》が垂《た》れ下《さが》っている崖の上の広壮な邸園《ていえん》の一端《いったん》にロマネスクの半円|祠堂《しどう》があって、一本一本の円柱は六月の陽《ひ》を受けて鮮《あざや》かに紫|薔薇色《ばらいろ》の陰《かげ》をくっきりつけ、その一本一本の間から高い蒼空《あおぞら》を透《す》かしていた。白雲が遥《はる》か下界のこの円柱を桁《けた》にして、ゆったり空を渡《わた》るのが見えた。
 今日も半円祠堂のまんなかの腰掛《こしかけ》には崖邸の夫人|真佐子《まさこ》が豊かな身体《からだ》つきを聳《そびや》かして、日光を胸で受止めていた。膝《ひざ》の上には遠目にも何か編みかけらしい糸の乱れが乗っていて、それへ斜《ななめ》にうっとりとした女の子が凭《もた》れかかっていた。それはおよそ復一の気持とは縁のない幸福そのものの図だった。真佐子はかなりの近視で、こちらの姿は眼に入らなかろうが、こちらからはあまりに毎日|見馴《みな》れて、復一にはことさら心を刺戟《しげき》される図でもなかったが、嫉妬《しっと》か羨望《せんぼう》か未練か、とにかくこの図に何かの感情を寄せて、こころを掻き《か》き立たさなければ、心が動きも止りもしないような男に復一はなっていた。
「ああ今日もまたあの図を見なくってはならないのか。自分とは全く無関係に生き誇《ほこ》って行く女。自分には運命的に思い切れない女――。」
 復一はむっくり起き上って、煙草《たばこ》に火をつけた。

 その頃、崖邸のお嬢《じょう》さんと呼ばれていた真佐子は、あまり目立たない少女だった。無口で俯向《うつむ》き勝《がち》で、癖《くせ》にはよく片唇《かたくちびる》を噛《か》んでいた。母親は早くからなくして父親育ての一人娘《ひとりむすめ》なので、はたがかえって淋《さび》しい娘に見るのかも知れない。当の真佐子は別にじくじく一つ事を考えているらしくもなくて、それでいて外界の刺戟に対して、極めて遅
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