たのであろう。彼の意地はむしろ彼女の思いがけない弱気を示した態度につけ込んで、出来るだけの強味と素気なさを見せていようと度胸を極《き》めた。彼は苦労した年嵩《としかさ》の男性の威を力み出すようにして「お入りなさい。なぜ入らないのです」といった。
 彼女は子供らしく、一度ちょっとドアの蔭へ顔を引込ませ、今度改めてドアを公式に開けて入って来たときは、胸は昔のごとく張り、据《すわ》り方にゆるぎのない頸つき、昔のように漂渺とした顔の唇には蜂蜜《はちみつ》ほどの甘みのある片笑いで、やや尻下りの大きな眼を正眼に煙らせて来た。眉《まゆ》だけは時代風に濃く描いていた。復一はもう伏目勝《ふしめがち》になって、気合い負けを感じ、寂しく孤独の殻《から》の中に引込まねばならなかった。
「しばらく、ずいぶん痩せたわね」
 しかし、彼女は云うほど復一を丁寧に観察したのでもなかった。
「ええ。苦労しましたからね」
「そう。でも苦労するのは薬ですってよ」
 それからしばらく話は地震のことや、復一のいた湖の話に外《そ》れた。
「金魚、いいの出来た?」
 これに返事することは、今のところいろいろの事情から、復一には困難だった。勇気を起して復一は逆襲《ぎゃくしゅう》した。
「お婿《むこ》さん、どうです」
「別に」
 彼女はちょっと窓から、母屋の縁外の木の茂《しげ》みを覗って
「いま、いないのよ。バスケットボールが好きで、YMCAへ行って、お夕飯ぎりぎりでなきゃ帰って来ないの、ほほほ」
 子供のように夫を見做《みな》しているような彼女の口振りに、夫を愛していないとも受取れない判断を下すことは、復一に取ってとても苦痛だった。進んで子供のことなぞ訊けなかった。
「ご紹介してもあなたには興味のないらしい人よ」
 それは本当だと思った。自分の偶像であるこの女を欠き砕《くだ》かない夫ならそれで充分《じゅうぶん》としなければならない。その程度の夫なら、むしろ持っていてくれる方が、自分は安心するかも知れない。
「ときどきものを送って下さって有難う」
「これは湖のそばで出来た陶《とう》ものです」
 復一は紙包《かみづつみ》を置いて立ち上った。
「まあ、お気の毒ね。復一さんが帰ってらして私も心強くなりますわよ」
 復一は逢《あ》ってみれば平凡な彼女に力抜けを感じた。どうして自分が、あんな女に全生涯までも影響されるのかと、不思議に感じた。薄暗くなりかけの崖の道を下りかけていると、晩鶯《ばんおう》が鳴き、山吹《やまぶき》がほろほろと散った。復一はまたしてもこどもの時真佐子の浴せた顎の裏の桜の花びらを想い起し、思わずそこへ舌の尖をやった。何であろうと自分は彼女を愛しているのだ。その愛はあまりに惑《まど》って宙に浮いてしまってるのだ。今更、彼女に向けて露骨《ろこつ》に投げかけられるものでもなし、さればと云って胸に秘め籠めて置くにも置かれなくなっている。やっぱり手慣れた生きものの金魚で彼女を作るより仕方がない。復一はそこからはるばる眼の下に見える谷窪の池を見下して、奇矯《ききょう》な勇気を奮い起した。

 谷窪の家の庭にささやかながらも、コンクリート建ての研究室が出来、新式の飼育のプールが出来てみれば、復一には楽しくないこともなかった。彼は親類や友人づきあいもせず一心不乱に立て籠った。崖屋敷の人達にも研究を遂《と》げる日までなるべく足を向けてもらわぬようそれとなく断っておいた。
「表面に埋《う》もれて、髄《ずい》のいのちに喰い込んで行く」
 そういう実の入った感じが無いでもなかった。自分の愛人を自分の手で創造する……それはまたこの世に美しく生れ出る新らしい星だ……この事は世界の誰も知らないのだ。彼は寂しい狭い感慨《かんがい》に耽《ふけ》った。彼は郡山の古道具屋で見付けた「神魚華鬘之図《しんぎょけまんのず》」を額縁に入れて壁に釣りかけ、縁側に椅子《いす》を出して、そこから眺めた。初夏の風がそよそよと彼を吹いた。青葉の揮発性の匂いがした。ふと彼は湖畔の試験所に飼われてある中老美人のキャリコを新らしい飼手がうまく養っているかが気になった。
「あんな旧《ふる》いものは見殺しにするほどの度胸がなければ、新しいものを創生する大業は仕了《しお》わせられるものではない。」
 ついでにちらりと秀江の姿が浮んだ。
 彼はわざとキャリコが粗腐病にかかって、身体が錆《さび》だらけになり、喘《あえ》ぐことさえ出来なくなって水面に臭《くさ》く浮いている姿を想像した。ついでにそれが秀江の姿でもあることを想像した。すると熱いものが脊髄《せきずい》の両側を駆け上って、喉元《のどもと》を切なく衝《つ》き上げて来る。彼は唇を噛んでそれを顎の辺で喰い止めた。
「おれは平気だ」と云った。

 その歳は金魚の交媒には多少季遅れであり、ま
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