与えた。同じような意味で彼は市中の酒場の女たちからも普通の客以上の待遇《たいぐう》を受けた。
 しかし、東京を離れて来て、復一が一ばん心で見直したというより、より以上の絆《きずな》を感じて驚いたのは、真佐子であった。
 真佐子の無性格――彼女はただ美しい胡蝶《こちょう》のように咲いて行く取り止めもない女、充《み》ち溢れる魅力はある、しかし、それは単に生理的のものでしかあり得ない。いうことは多少気の利いたこともいうが、機械人間が物言うように発声の構造が云っているのだ。でなければ何とも知れない底気味悪い遠方のものが云っているのだ。そうとしか取れない。多少のいやらしさ、腥《なまぐさ》さもあるべきはずの女としての魂、それが詰め込まれている女の一人として彼女は全面的に現れて来ない。情痴《じょうち》を生れながらに取り落して来た女なのだ。真佐子をそうとばかり思っていたせいか復一は東京を離れるとき、かえってさばさばした気がした。マネキン人形さんにはお訣れするのだ。非人間的な、あの美魔《びま》にはもうおさらばだ。さらば!
 と思ったのは、移転や新入学の物珍らしさに紛《まぎ》れていた一二ケ月ほどだけだった。湖畔の学生生活が空気のように身について来ると、習慣的な朝夕の起《お》き臥《ふ》しの間に、しんしんとして、寂しいもの、惜《お》しまれるもの、痛むものが心臓を掴《つか》み絞るのであった。雌花《めばな》だけでついに雄蕋《おしべ》にめぐり合うことなく滅《ほろ》びて行く植物の種類の最後の一花、そんなふうにも真佐子が感ぜられるし、何か大きな力に操られながら、その傀儡《かいらい》であることを知らないで無心で動いている童女のようにも真佐子が感ぜられるし、真佐子を考えるとき、哀《あわ》れさそのものになって、男性としての彼は、じっとしていられない気がした。そして、いかなる術も彼女の中身に現実の人間を詰めかえる術は見出しにくいと思うほど、復一の人生|一般《いっぱん》に対する考えも絶望的なものになって来て、その青寒い虚無感《きょむかん》は彼の熱苦るしい青年の野心の性体を寂しく快く染めて行き、静かな吐息を肺量の底を傾《かたむ》けて吐き出さすのだった。だが、復一はこの神秘性を帯びた恋愛にだんだんプライドを持って来た。
 それに関係があるのかないのか判《わか》らないが、復一の金魚に対する考えが全然変って行き、ねろりとして、人も無げに、無限をぱくぱく食べて、ふんわり見えて、どこへでも生の重点を都合よくすいすい置き換え、真の意味の逞ましさを知らん顔をして働かして行く、非現実的でありながら「生命」そのものである姿をつくづく金魚に見るようになった。復一は「はてな」と思った。彼は子供のときから青年期まで金魚屋に育って、金魚は朝、昼、晩、見飽《みあ》きるほど見たのだが、蛍《ほたる》の屑《くず》ほどにも思わなかった。小さいかっぱ虫に鈍《にぶ》くも腹に穴を開けられて、青みどろの水の中を勝手に引っぱられて行く、脆《もろ》いだらしのない赤い小布の散らばったものを金魚だと思っていた。七つ八つの小池に、ほとんどうっちゃり飼いにされながら、毎年、池の面が散り紅葉で盛り上るように殖《ふ》えて、種の系続を努めながら、剰った魚でたいして生活力がありそうもない復一親子三人をともかく養って来た駄金魚を、何か実用的な木《こ》っ葉《ぱ》か何かのように思っていた。
 もっとも復一の養父は中年ものだけに、あまり上等の金魚は飼育出来なかった。せいぜい五六年の緋鮒《ひぶな》ぐらいが高価品で、全くの駄金魚屋だった。この試験所へ来て復一は見本に飼われてある美術品の金魚の種類を大体知った。蘭鋳、和蘭《オランダ》獅子頭《ししがしら》はもちろんとして、出目《でめ》蘭鋳、頂点眼《ちょうてんがん》、秋錦、朱文錦《しゅぶんきん》、全蘭子、キャリコ、東錦、――それに十八世紀、ワシントン水産局の池で発生してむこうの学者が苦心の結果、型を固定させたという由緒《ゆいしょ》付の米国生れの金魚、コメット・ゴールドフィッシュさえ備えられてあった。この魚は金魚よりむしろ闘魚《とうぎょ》に似て活溌《かっぱつ》だった。これ等《ら》の豊富な標本魚は、みな復一の保管の下に置かれ、毎日昼前に復一がやる餌を待った。
 水を更《か》えてやると気持よさそうに、日を透けて着色する長い虹《にじ》のような脱糞《だっぷん》をした。
 研究が進んで来ると復一は、試験所の研究室と曲もの細工屋の離《はなれ》の住家とを黙々として往復する以外は、だんだん引籠《ひきこも》り勝ちになった。復一が引籠り勝ちになると湖畔の娘からはかえって誘《さそ》い出しが激しくなった。
 娘は半里ほど湖上を渡って行く、城のある出崎の蔭に浮網《うきあみ》がしじゅう干してある白壁《しらかべ》の蔵を据えた魚漁家の娘
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