だった。
この大きな魚漁家の娘の秀江は、疳高《かんだか》でトリックの煩《わずら》わしい一面と、関西式の真綿《まわた》のようにねばる女性の強みを持っていた。
試験所から依頼《いらい》されているのだが、湖から珍らしい魚が漁《と》れても、受取りの係である復一は秀江の家へ近頃はちっとも来ないのである。そして代りの学生が来る。秀江はどうせ復一を、末《すえ》始終《しじゅう》まで素直《すなお》な愛人とは思っていなかった。いよいよ男の我壗《わがまま》が始まったか、それとも、何か他の事情かと判断を繰り返しながら、いろいろ探りを入れるのであった。幹事である兄に勧めて青年漁業講習会の講師に復一を指名して出崎の村へ二三日ばかり呼び寄せようとしてみたり、兄の子を唆《そその》かして、あどけない葉書を復一に送らせ、その返事振りから間接に復一の心境を探ろうとしたりした。彼女自身手紙を出したり、電話をかけても、復一から実のある返事が得られそうな期待は薄《うす》くなった。彼女は兄夫婦の家の家政婦の役を引受けて、相当に切廻《きりまわ》していた。彼女と復一との噂《うわさ》は湖畔に事実以上に拡《ひろが》っているので、試験所の界隈へは寄りつけなかった。
「東京を出てからもう二年目の秋だな」
復一は、鏡のように凪《な》いだ夕暮前の湖面を見渡しながら、モーターボートの纜《ともづな》を解いた。対岸の平沙《へいさ》の上にM山が突兀《とつこつ》として富士型に聳《そび》え、見詰めても、もう眼が痛くならない光の落ちついた夕陽が、銅の襖《ふすま》の引手のようにくっきりと重々しくかかっている。エンジンを入れてボートを湖面に滑《すべ》り出さすと、鶺鴒《せきれい》の尾のように船あとを長くひき、ピストンの鼓動《こどう》は気のひけるほど山水の平静を破った。
復一の船が海水浴場のある対岸の平沙の鼻に近づくと湖は三叉《さんさ》の方向に展開しているのが眺め渡された。左手は一番広くて袋《ふくろ》なりに水は奥へ行くほど薄れた懐《ふところ》を拡げ、微紅《びこう》の夕靄《ゆうもや》は一層水面の面積を広く見せた。右手は、蘆《あし》の洲《す》の上に漁家の見える台地で、湖の他方の岐入と、湖水の唯一《ゆいいつ》の吐け口のS川の根元とを分っている。S川には汽車の鉄橋と、人馬の渡る木造の橋とが重なり合って眺められ、汽車が煙を吐きながら鉄橋を通ると、すべての景色が玩具《がんぐ》染《じ》みて見えた。
復一は、平沙の鼻の渚《なぎさ》近くにボートを進ませたが、そこは夕方にしては珍らしく風当りが激しくて海のように菱波《ひしなみ》が立ち、はす[#「はす」に傍点]の魚がしきりに飛んだ。風を除《よ》けて、湖の岐入の方へ流れ入ると、出崎の城の天主閣《てんしゅかく》が松林《まつばやし》の蔭から覗き出した。秀江の村の網手の影が眼界に浮《うか》び上って来たのである。結局、いつもの通り、湖の岐入とS川との境の台地下へボートを引戻《ひきもど》し、蘆洲の外の馴染《なじみ》の場所に舶《と》めて、復一は湖の夕暮に孤独《こどく》を楽しもうとした。
復一はボートの中へ仰向《あおむ》けに臥《ね》そべった。空の肌質《きじ》はいつの間にか夕日の余燼《ほとぼり》を冷《さ》まして磨《みが》いた銅鉄色に冴《さ》えかかっていた。表面に削《けず》り出しのような軽く捲《ま》く紅いろの薄雲が一面に散っていて、空の肌質がすっかり刀色に冴えかえる時分を合図のようにして、それ等の雲はかえって雲母《うんも》色に冴えかえって来た。復一はふと首を擡《もた》げてみると、まん丸の月がO市の上に出ていた。それに対してO市の町の灯の列はどす赤く、その腰を屏風《びょうぶ》のように背後の南へ拡がるじぐざぐの屏嶺《へいれい》は墨色《すみいろ》へ幼稚《ようち》な皺《しわ》を険立たしている。
対岸の渚の浪《なみ》の音が静まって、ぴちょりぴょんという、水中から水の盛り上る音が復一の耳になつかしく聞えた。湖水のここは、淵《ふち》の水底からどういう加減か清水《しみず》が湧き出し、水が水を水面へ擡げる渦《うず》が休みなく捲き上り八方へ散っている。湖水中での良質の水が汲《く》まれるというのでここを「もくもく」と云い、京洛《けいらく》の茶人はわざわざ自動車で水を汲ませに寄越す。情死するため投身した男女があったが、どうしても浮き上って死ねなかったという。いろいろな特色から有名な場所になっている。
この周囲の泥沙《でいさ》は柳《やなぎ》の多いところで、復一は金魚に卵を産みつけさせる柳のひげ[#「ひげ」に傍点]根を摂《と》りに来てここを発見した。
「生命感は金魚に、恋のあわれは真佐子に、肉体の馴染みは秀江に。よくもまあ、おれの存在は器用に分裂《ぶんれつ》したものだ」
もくもくの水の湧き上る渦の音を聞いて復
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