美麗《びれい》な創造を水の中へ生み出そうとする事はいかに素晴《すばら》しい芸術的な神技であろう、と真佐子は口を極めて復一のこれから向おうとする進路について推賞するのであった。真佐子は、霊南坂《れいなんざか》まで来て、そこのアメリカンベーカリーへ入るまで、復一を勇気付けるように語り続けた。
楼上《ろうじょう》で蛾《が》が一二匹シャンデリヤの澄《す》んだ灯のまわりを幽《かす》かな淋しい悩みのような羽音をたてて飛びまわった。その真下のテーブルで二人は静かに茶を飲みながら、復一は反対に訊いた。
「僕のこともですが。真佐子さんはどうなさるんですか。あなた自身のことについてどう考えているんです。あなたはもう学校も済んだし、そんなに美しくなって……」
復一はさすがに云い淀《よど》んだ。すると真佐子は漂渺とした白い顔に少し羞《はじらい》をふくんで、両袖《りょうそで》を掻き合しながら云った。
「あたしですの。あたしは多少美しい娘かも知れないけれども、平凡《へいぼん》な女よ。いずれ二三年のうちに普通に結婚《けっこん》して、順当に母になって行くんでしょう」
「……結婚ってそんな無雑作なもんじゃないでしょう」
「でも世界中を調べるわけに行かないし、考え通りの結婚なんてやたらにそこらに在るもんじゃないでしょう。思うままにはならない。どうせ人間は不自由ですわね」
それは一応絶望の人の言葉には聞えたが、その響《ひびき》には人生の平凡を寂しがる憾《うら》みもなければ、絶望から弾《は》ね上って将来の未知を既知《きち》の頁《ページ》に繰《く》って行こうとする好奇心《こうきしん》も情熱も持っていなかった。
「そんな人生に消極的な気持ちのあなたが僕のような煮《に》え切らない青年に、英雄的な勇気を煽《あお》り立てるなんてあなたにそんな資格はありませんね」
復一は何にとも知れない怒《いか》りを覚えた。すると真佐子は無口の唇を半分噛んだ子供のときの癖を珍らしくしてから、
「あたしはそうだけれども、あなたに向うと、なんだかそんなことを勧めたくなるのよ。あたしのせいではなくて、多分、あなたがどこかに伏《ふ》せている気持ち――何だか不満のような気持ちがあたしにひびいて来るんじゃなくって、そしてあたしに云わせるんじゃなくて」
しばらく沈黙《ちんもく》が続いた。復一は黙って真佐子に対《むか》っていると、真佐子の人生に無計算な美が絶え間なく空間へただ徒《いたず》らに燃え費されて行くように感じられた。愛惜《あいせき》の気持ちが復一の胸に沁《し》み渡ると、散りかかって来る花びらをせき留めるような余儀《よぎ》ない焦立《いらだ》ちと労《いたわ》りで真佐子をかたく抱《だ》きしめたい心がむらむらと湧き上るのだったが……。
復一は吐息《といき》をした。そして
「静かな夜だな」
というより仕方がなかった。
復一が研究生として入った水産試験所は関西の大きな湖の岸にあった。Oという県庁所在地の市は夕飯後の適宜《てきぎ》な散歩|距離《きょり》だった。
試験所前の曲《まげ》ものや折箱《おりばこ》を拵《こしら》える手工業を稼業《かぎょう》とする家の離《はな》れの小|座敷《ざしき》を借りて寝起きをして、昼は試験所に通い、夕飯後は市中へ行って、ビールを飲んだり、映画を見たりする単純な技術家気質の学生生活が始まった。研究生は上級生まで集めて十人ほどでかなり親密だった。淡水魚《たんすいぎょ》の、養殖《ようしょく》とか漁獲《ぎょかく》とか製品保存とかいう、専門中でも狭《せま》い専門に係る研究なので、来ている研究生たちは、大概《たいがい》就職の極《きま》っている水産物関係の官衙《かんが》や会社やまたは協会とかの委託生《いたくせい》で、いわば人生も生活も技術家としてコースが定められた人たちなので、朴々《ぼくぼく》としていずれも胆汁質《たんじゅうしつ》の青年に見えた。地方の人が多かった。それに較《くら》べられるためか、復一は際だった駿敏《しゅんびん》で、目端《めはし》の利く青年に見えた。専修科目が家畜魚類の金魚なのと、そういう都会人的の感覚のよさを間違って取って、同学生たちは復一を芸術家だとか、詩人だとか、天才だとか云って別格にあしらった。復一自身に取っては自分に一ばん欠乏もし、また軽蔑《けいべつ》もしている、そういうタイトルを得たことに、妙なちぐはぐな気持がした。
担任の主任教授は、復一を調法にして世間的関係の交渉《こうしょう》には多く彼を差向けた。彼は幾つかのこの湖畔《こはん》の水産に関係ある家に試験所の用事で出入りをしているうち、その家々で二三人の年頃の娘とも知合いになった。都会の空気に憧憬《あこが》れる彼女等はスマートな都会青年の代表のように復一に魅着の眼を向けた。それは極めて実感的な刺戟を彼に
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