がした。
「復一さんは、どうしても金魚屋さんになるつもり」
 真佐子は隣《となり》に復一がいるつもりで、何気なく、相手のいない側を向いて訊《たず》ねた。ひと足遅れていた復一は急いでこの位置へ進み出て並んだ。
「もう少し気の利いたものになりたいんですが、事情が許しそうもないのです」
「張合のないことおっしゃるのね。あたしがあなたなら嬉《よろこ》んで金魚屋さんになりますわ」
 真佐子は漂渺《ひょうびょう》とした、それが彼女《かのじょ》の最も真面目《まじめ》なときの表情でもある顔付をして復一を見た。
「生意気なこと云うようだけれど、人間に一ばん自由に美しい生きもの[#「生きもの」に傍点]が造れるのは金魚じゃなくて」
 復一は不思議な感じがした。今までこの女に精神的のものとして感じられたものは、ただ大様《おうよう》で贅沢《ぜいたく》な家庭に育った品格的のものだけだと思っていたのに、この娘から人生の価値に関係して批評めく精神的の言葉を聞くのである。ほんの散歩の今の当座の思い付きであるのか、それとも、いくらか考えでもした末の言葉か。
「そりゃ、そうに違いありませんけれど、やっぱりたかが金魚ですからね」
 すると真佐子は漂渺とした顔付きの中で特に煙る瞳を黒く強調させて云った。
「あなたは金魚屋さんの息子《むすこ》さんの癖に、ほんとに金魚の値打ちをご承知ないのよ。金魚のために人間が生き死にした例がいくつもあるのよ」
 真佐子は父から聴いた話だといって話し出した。
 その話は、金魚屋に育った復一の方が、おぼろげに話す真佐子よりむしろ詳《くわ》しく知っていたのであるが、真佐子から云われてみて、かえって価値的に復一の認識に反覆《はんぷく》されるのであった。事実はざっとこうなのである。
 明治二十七八年の日清戦役後の前後から日本の金魚の観賞熱はとみに旺盛《おうせい》となった。専門家の側では、この機に乗じて金魚商の組合を設けたり、アメリカへ輸出を試みたりした。進歩的の金魚商は特に異種の交媒《こうばい》による珍奇《ちんき》な新魚を得て観賞需要の拡張を図ろうとした。都下砂村の有名な金魚飼育商の秋山が蘭鋳からその雄々《おお》しい頭の肉瘤《にくりゅう》を採り、琉金《りゅうきん》のような体容の円美と房々《ふさふさ》とした尾《お》を採って、頭尾二つとも完美な新種を得ようとする、ほとんど奇蹟《きせき》にも
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