仕事も、その命令通りにした愚直なことが、そこに叱言《こごと》の隙間《すきま》もないことで父を怒らせた。兄はしじゆうおど/\してゐて、眼鼻立ちに神経の疲労と愁《うれ》ひの湿りがあつた。濃い頭の捲毛《まきげ》だけが兄弟似寄つてゐた。兄弟は父が現代教育の方針に不満といふ理由で、一人は中学を、一人は高等学校を、途中から退学させられて、通つて来る二三人の家庭教師に就《つ》かされてゐるが、実は父が家庭に於ける享楽《きょうらく》生活に手不足を来《きた》すのを、父は極力嫌つたためでもあつた。
兄の鞆之助は雪子の部屋へよく遊びに来た。雪子が部屋の周囲に、蔵から出して来た、真《ほん》ものゝ植物以上に生々と浮き出てゐる草花が染付けられてゐる鉄|辰砂《しんしゃ》の水差や、掌《てのひら》の中に握り隠せるほどの大きさの中に、恋も、嘆きも、男女の媚態《びたい》も大まかに現はれてゐる芥子《けし》人形や、徳川三百年の風流の生粋《きっすい》が、毛筋で突いたやうな柳と白鷺《しらさぎ》の池水《ちすい》に彫《きざ》み込まれた後藤派の目貫《めぬ》きのやうなものを並べて、自分の店から持つて来たいろ/\の専門の道具や薬品を使つて手入れしながら、面倒臭く思つて伸びをしたり、または芸術といふ不思議な幻術が牽《ひ》き入れる物憎い恍惚《こうこつ》に浸《ひた》つたりしてゐると兄はおづ/\入つて来る。
彼はかの女の傍に立膝《たてひざ》して坐《すわ》ると、いくらか手入れを手伝ひながら、かの女の気配を計つた。かの女の丸い顔をいぢらしさうに見た。
「うちは、これでね、思つたほど豊かぢやないんですよ。何しろ父はあゝいふ風でせう。何でも見付け次第買つちまつて、とき/″\月末の生活費の払ひの現金にも困ることがあるんです」
かの女は興味索然としながら話に釣り込まれた。
「あなた方ご兄弟は将来どうするお積り」
「父が生きてゐるうちは今の財産を使つちまつても、父の恩給で米代ぐらゐはありますが、父が死んだらこんな道具類でもぽつ/\売つて喰つて行くより手はありません。それにしても贋物《にせもの》が多くて」
「持参金附きのお嫁さんでもお貰《もら》ひになつたらいかゞ。ご兄弟とも美男子だしお家柄はよし」
かの女は揶揄《からか》つた。鞆之助は真《ま》に受けた。
「だめですよ。第一僕等に学歴はなし、それにかう見えて、僕は女に対してうんと贅沢《ぜいたく》な好みを持つてゐるんです」
「弟さんは」
「あれは父と同じに女嫌ひらしいです」
さうかと思ふとまたの日は急に朗らかで、いそ/\して来て、どこから探し出して来たか、古風な猥《みだ》らな絵巻物をかの女にそつと拡げかけるやうなこともあつた。かの女は極力平静を装つて、彼の顔を正視した。
「それどこが面白いのでございます」
すると、彼は照れて、
「僕にはものを考へないといふモツトー以外には生きる方法はないんです。単に刹那《せつな》々々の刺戟《しげき》のほかには……」
と負け惜しみのやうなことを云ひながら、手持ち不沙汰《ぶさた》にそれを巻き納めて部屋を出て行くのだつた。
父のYは旧幕の権臣の家の後嗣《こうし》者であつた。旧藩閥の明治の功傑たちは、新政府に従順だつた幕府方の旧権臣の家門を犒《ねぎら》ふ意味から、その後嗣者を官吏として取り立てた。Yは相当なところまで出世した。しかし、Yの持つて生れた度外れの気位と我執《がしゅう》の性質から、たうとう長上《ちょうじょう》と衝突して途中で辞めて仕舞《しま》つた。遺産のあるまゝに生来の蒐集癖《しゅうしゅうへき》に耽《ふけ》つて、まだ壮年をちよつと過ぎたくらゐの年頃を我儘三昧《わがままざんまい》に暮さうと決めてしまつた。恐るべきエゴイストの墓標のやうな人間であつた。
Yの権高《けんだか》な気風と、徹底した利己主義に、雪子はやゝ超人的な崇高な感じは受けたが、下町娘の持つ仁侠《にんきょう》的な志気はYにひどい反抗と憎みを持つた。あはよくば、Yが寵愛《ちょうあい》してゐる弟息子を奪つて、父の傲慢《ごうまん》の鼻を明かしてやらうとさへヒステリカルに感じた。
兄の息子は、膨れ目蓋《まぶた》のしじゆう涙ぐんでゐるやうに見える、皮膚の水つぽい青年だつた。女のことで一度|落度《おちど》があつたといふ噂《うわさ》だが、しかしそのことが原因ばかりでもない蔭の人の性分を十分持つてゐて、父や弟から、身内と召使ひとの中間の人間に扱はれ、雇人《やといにん》に混つて、自然にこの別寮の家扶《かふ》のやうな役廻りになつてゐた。しかし、見かけほど悲劇的な性格もなく、どこかのん気で愚《おろか》なところがあつて、情操的にものを突き詰めては考へられなく、萍《うきくさ》の浮いたところがあつた。
母のゐないこの別寮で、兄の鞆之助は主婦のやうな役目にもなつた。雪子
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