過去世
岡本かの子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)洲《す》とは
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)青|蘆《あし》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)さとり[#「さとり」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)だん/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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池は雨中の夕陽の加減で、水銀のやうに縁だけ盛り上つて光つた。池の胴を挟んでゐる杉木立と青|蘆《あし》の洲《す》とは、両脇から錆《さ》び込む腐蝕《ふしょく》のやうに黝《くろず》んで来た。
窓外のかういふ風景を背景にして、室内の食卓の世話をしてゐる女主人の姿は妖《あや》しく美しかつた。格幅《かっぷく》のいゝ身体に豊かに着こなした明石《あかし》の着物、面高《おもだか》で眼の大きい智的な顔も一色に紫がゝつた栗《くり》色に見えた。古墳の中の空気をゼリーで凝《こご》らして身につけてゐるやうだつた。室内でたつた一人の客の私は、もう灯《ひ》をともしてもいゝ時分なのを、さうしないのは、今宵私を招いた趣旨の蛍《ほたる》見物に何か関係があるのかも知れないと思ひ、すこしは薄気味悪くも我慢して、勧められるまゝ晩餐《ばんさん》のコースを捗《はかど》らせて行つた。だん/\募る夕闇の中に銀の食器と主客の装身具が、星座の星のやうに煌《きら》めいた。
女主人久隅雪子は私と女学校の同級生で、学校を卒業するとしばらく下町の親の家に居たことだけは判つたが、直ぐ消息を断つた。それから十年あまりして私は既に結婚してゐて、良人《おっと》に連れられて外遊する船がナポリに着いた時、行き違ひに出て行かうとする船に乗り込む遽《あわただ》しいかの女に、埠頭《ふとう》でぱつたり出遭《であ》つて、僅《わず》かにお互《たがい》に手を握つた。あとは私の帰朝後を待つてといひ残して訣《わか》れてしまつた。
二人ともいはゆる箱入娘で、女学生にしてもすでに知らねばならない生理的の智識に疎《うと》いところがあり、よく師友から笑ひ者にされた。その代り二人は競つて難しい詩や哲学の書物を読んだ。さういつた関係から、双方無口であり極度の含羞《はにかみ》やでありながら、何か黙照し合ふものがあるつもりで頼母《たのも》しく思つてゐた。だが私が四年目に帰朝し、それから二三年も経《た》つたのに、かの女からは再び何の消息もなく、同窓の誰も知らなかつた。一度こちらから親の家へ尋ね合した手紙は、久しく前に移転して住所不明の附箋《ふせん》で返されて来た。
ところが突然かの女は郊外の新居といふのから電話して来て、車を廻して寄越《よこ》し、自宅で蛍見物をさすといふのに、のん気な昔の友人訪問の気持を取り戻して、私は来て見たのであつた。
淡い甘さの澱粉《でんぷん》質の匂ひに、松脂《まつやに》と蘭《らん》花を混ぜたやうな熱帯的な芳香《ほうこう》が私の鼻をうつた。女主人は女中から温まつた皿を取次いで私の前へ置いた。
「アテチヨコですの?」
「お好き?」
「えゝ。でも、レストラントでなくて素人《しろうと》のおうちでかういふお料理珍しいと思ふわ」
「素人ぢやございませんわ。店の司厨長《シェッフ》を呼び寄せて、みな下で作らして居ますのよ」
「わざ/\、まあ、恐れ入りました」
「私、最近に下町で瀟洒《しょうしゃ》なレストラントを始めようと思つて、店や料理人を用意してありますのよ」
女主人はレモンの汁を私の皿の手前に絞つて呉《く》れ、程よく食塩と辛子《からし》を落して呉れた。私は大きな松の実のやうな菜果を手探りで皮を一枚づゝ剥《は》ぎ、剥げ根にちよつぽり塊《かたま》つてついてゐる果肉に薬味の汁をつけて、その滋味を前歯で刮《か》き取ることにこどものやうな興味を湧《わか》しながら、
「まあ、あなたがお料理屋を、どうして」
「――何かして紛らしてゐなければ――独身女はしじゆう焦々《いらいら》しますのよ」
さう云つて友はちよつと眉《まゆ》を寄せたが、友の内心には何処《どこ》かさとり[#「さとり」に傍点]めいた寛《くつろ》いだ場所が出来、一脈の涼風が過不及《かふきゅう》なしの往来をしてゐるらしくも感じられる。下手な情感的な態度を見せては案外友を煩《うる》さがらさぬともかぎらない。
「それよりも、私、私が今度買ひ取つて落着くやうになつたこの家に就いて不思議な因縁話があるの、あなたに聴いて頂かうと思つて……さう陽気な話ぢやありませんの。灯《ひ》をつけて話しますわ」
夕顔の花のやうな照り色のシヤンデリヤがぽつとついた。室内の照明に負けて窓外の景色はたちまち幕を閉ぢて、雨の銀糸が黒い幕面にかすれた。一たん眼を冥《つむ》つた友はまたぱつと開いて私の顔を真面《まとも
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