が来て二月ほどしたある日、弟の梅麿はかの女の部屋に来てゐた兄のところへ珍しく入つて来て、
「兄さん、僕に出して呉《く》れた着物、綻《ほころ》びが切れてるぢやないか」
と袂《たもと》をあげて脇を見せた。
すると兄ははら/\しながら、美しく重圧して来る弟の黒い瞳に堪へないやうに眼を伏せて目蓋《まぶた》をぴり/\させ、
「だつて、いま、婆《ばあ》やも女中も使ひに出しちやつてゐないんだから仕方がないよ」
すると梅麿は苦いものに内部から体を縒《よ》ぢ廻されるやうに憂鬱《ゆううつ》な苦悩を表情に見せて、
「もう浴衣《ゆかた》でなきや暑くて、お父さんにいひつかつた庭の盆栽へ水をやりに行けないぢやないか――兄さん自分で縫つてお呉《く》れよ」
兄の不甲斐《ふがい》ない性質に対する日頃の不満と、この弟を凝《こご》つた瑩玉《えいぎょく》のやうに美しくしてゐる生れ付き表現の途《みち》を知らない情熱と、生命力の弱いものに対しては肉親でも奴隷《どれい》のやうに虐《しいた》げて使つてしまふ親譲りのエゴイズムとが、異様で横暴な形を採つて兄に迫つた。
兄は困つたやうな情けないやうな表情をして、突き付けられた浴衣《ゆかた》に近寄つて行つた。
しかし、傍に雪子のゐるのを見ると、薄い乾いた下唇をちよつと舌の先で湿らしてから、兄はにやりと笑つた。
「無理をいふなよ――だめだよ。男になんか、縫へなんて……」
そして腕組みをして昂然《こうぜん》とした態度を作つた。それには不自然なところがあつた。兄はありたけの勇を揮《ふる》つて弟の瞳に睨《にら》み合つた。
雪子の立場が切ないものになつて来た。雪子は彼女の箪笥《たんす》の観音開きから急いで針道具を取出して来て、弟の持つてゐる浴衣に手をかけた。
「何でもありませんわ。あたし縫つてあげますわ」
すると、梅麿は浴衣を雪子の手からすつと外《は》づして、なほ兄に向つていつた。
「兄さん縫つてお呉れよ。いつもうまく縫ふぢやないか」
兄は赤くなつた。弟は兄になほも迫つた。場合によつては平気で、兄が雪子に聞かれて、もつと顔を赤くしさうな暴露の意地悪さを用意して、ぜひ兄に縫はせないでは置かない気配を示した。そこにはまた、雪子といふ第三者が入り込むのを潔癖《けっぺき》に嫌ふいこぢさ[#「いこぢさ」に傍点]もあつた。
雪子は弟が肉親の兄に対する執拗《しつよう》な残忍な仕打ちと、また女の身の雪子が折角《せっかく》の申出《もうしで》を態《てい》よく拒否された恥とで、心中怒りが盛り上つて来た。何として仕返しをしてやらう――雪子は針道具をそこへ置いたまゝ、青葉の映る椽側《えんがわ》へ離れて行つて、そこの柱へ凭《もた》れてまじ/\と弟を見詰めてゐてやつた。
兄は雪子の気配を察するだけに、いよ/\その場の処置が困難になつて、ただ生《なま》返事をして萎縮《いしゅく》してゐた。
雪子はふと、母もなく我執の父の下に育つて、情のしこつた弟息子の親への甘えごころが、兄へかうも変つた形を採つて現はれるのではないかと気がついた。そして、生命力の薄い、物に浮《うか》れ易《やす》い兄は、到底弟のこの本能の一徹な慾求を理解もし負担もしてやる力はないのだと思つた。兄は彼の紛らし易《やす》い性分から、彼の愛の慾求を何かに振り撒《ま》き、繋《つな》ぐことによつて、彼自身だけの始末をつけてゐた。彼はこの頃いよ/\雪子に向けて心を寄せる傾向が見えてゐた。
兄は雪子の眼の前で針仕事をする姿を、何としても見せたくないらしく、いかに弟に迫られても薄笑ひしてゐて、応じなかつた。そして顔色を蒼《あお》ざめさしたり、急に赤めたり、しかもわきへ避けて行かないで、だん/\眼と口とが茫漠《ぼうばく》となるところを見ると、一種の被虐性の恍惚《こうこつ》に入つてゐるものゝやうに見えた。
弟はこれに対してます/\執拗《しつよう》になり、果ては凡《あら》ゆる侮誣《ぶふ》の言葉を突きつけて兄に向つた。
雪子は見てはゐられない気がした。こんなに執拗に取組まなければ愛情の吐け口を得られない兄弟の運命や性格の原因をどこへ持つて行つたらいゝか、その詮索《せんさく》をするのさへいま/\しいほど、心を不快に底から攪《か》き廻された。いまから考へると多分の嫉妬《しっと》もあつたやうに思ふ。さういふ険《けわ》しい石火《いしび》を截《き》り合つて、そこの裂目《さけめ》から汲《く》まれる案外甘い情感の滴り――その嗜慾《しよく》に雪子は魅惑を感じた。雪子の細胞には、他人のさういふ仕打ちの底の心理を察して羨《うらや》むだけの旧家《きゅうか》育ちの人間によくある、加虐性も被虐性も織り込まれてゐた。
弟はたうとう兄の薄皮の手首を、女のやうにじーつと抓《つね》つた。兄は真赤に顔を歪《ゆが》めてそれを堪へてゐた
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