。雪子は激動の極、少し痴呆《ちほう》状態になつて却《かえ》つて逆に刺戟《しげき》を求めるこゝろから、もつと眼の前で惨劇の進むのに息詰まる興味を持つやうになつてゐた。
それが終ると弟は浴衣《ゆかた》を抛《ほう》り出して、手早く帯を解いて、それから着てゐた袷《あわせ》も脱いだ。
「僕、縫つて呉《く》れないなら、裸で庭へ出て行くから――」
行きかける風さへみせた。
兄はあわてゝ弟を捉《とら》へた。
「だめだよ。そんななりで、君、感冒《かぜ》をひくぢやないか」
兄は弟が小さい時感冒から肋膜《ろくまく》の気になつたのを覚えてゐて、それを気遣《きづか》つたものゝ、もつと大きな原因は、この兄弟は生まれつき肉体の露出については不思議な羞恥《しゅうち》の本能を持つてゐた。他人に見られるやうなところで、どんな必要の場合でも肌を脱いだり、裾《すそ》をからげたりは決してしなかつた。兄弟同志の間では、なほ更それは猥《みだ》らなものを見るやうに嫌つた。
いま弟がそれを敢《あえ》てするのは、必死の羞恥を突き付けて、兄に必死の決意を促す最後の脅迫手段だつた。
「君、裸を垣根から通る人に見られるぢやないか」
「かまふもんか」
兄弟は死のやうに蒼《あお》ざめて争つた。
兄は息が切れるやうに喘《あえ》いだ。眼を伏せて、なるべく見ないやうにして、着物を弟に着せようとした。弟は肩ではねのけた。幾度か少青年の白磁色の身体が紺竪縞《こんたてじま》の大島の着物に覆はれては剥《む》け出た。兄はその所作の間に、しばしば雪子の方を振り向いてかの女の気配を窺《うかが》つた。
兄の気持を察すると、弟の童貞で魅惑的な肉体を、自分が心を寄せかけてゐる若い娘に見られることは嫉《ねた》ましく厭《いと》はしかつた。だが我意を貫《つらぬ》くことゝ兄を脅《おど》すことの一図に耽《ふけ》る弟は、今は全く雪子の存在などは無視した。弟は一体ふだんから雪子の存在をどう考へてゐるのか、女といふものに対してどういふ感受性を持つてゐるのか、全く不明だつた。それは雪子を寂しく焦立《いらだ》たしいものにしたが、この場合、彼が何人《なんぴと》に対しても嫌ふ裸身を雪子の前ですらりと現はすといふことは、たとへその目的は兄に向つてゞあるとはいへ、副作用として雪子は無視の軽蔑《けいべつ》を斜《はす》に受けないわけにはゆかなかつた。だが、こゝに至つて雪子は怒らうと思つてもなぜか力が脱けた。
雪子を女として少しも顧慮されない自分を、急に魅力のない卑しいものに感じて、弟に対して感じてゐるふだんの心の底の寂しさを一層深めた。
「仕方がないやつだなあ」
兄はたうとう負けて、雪子がそこへ置いて来た針道具を、ちよつとかの女に会釈《えしゃく》して、手元へ引き寄せた。針さしから手頃の針を抜き取り、針先を頭の髪の毛へ突き込んで油をにじませた。アイヌの郷土細工の糸巻から、弟の着物と似合ひの色糸を見付けて、針の孔《めど》へ通した。それからいかにも物馴《ものな》れた調子で綻《ほころ》びを繕《つくろ》ひにかゝつた。
男の針仕事――。いかにぎこちなく、佗《わび》しい形でそれが行はれることだらう。雪子はあらかじめぞりつと寒気を催すと共に、その不快な醜さによつてかの女の神経の肌質《きめ》をさゝくれ立たされることを覚悟してゐたが、兄の手振りを見ておや/\と思つて安心した。より以上に感心した。それは女のする通りの所作に違ひないが、しかしその通りを男の青年がするのに、少しも男の格を崩し、また男の品位を塩垂《しおた》れさすやうな女々《めめ》しい窪《くぼ》みは見出《みいだ》せなかつた。従容《しょうよう》として、たゞ優しい仕事に、男がいたはり携《たずさ》はつてゐる自然の姿に外《ほか》ならなかつた。結局、兄の性格としてそれは身についた仕事であり、弟へしてやつてゐる平常からの馴《な》れであり、実は好みの就業となつてゐるのかも知れない。
「男の針仕事もいゝものだ」
と、雪子は胸の中でさう嘆声を漏《も》らしてゐた。
だが、雪子は羞明《まばゆ》いのを犯して、兄の縫ふ傍に立つてゐる弟の裸身に眼をやると同時に、全面的に雪子に向つて撞《つ》き入らうとする魅惑を防禦《ぼうぎょ》して、かの女の筋肉の全細胞は一たん必死に収斂《しゅうれん》した。すぐ堪へ切れない内応者があつて、細胞はまた一時に爆発した。そしてすつかり困迷して痴呆《ちほう》状態に陥つた雪子の心身へ、若く甘い魅惑は水の如く浸《ひた》り込んだ。
雪子はこの若きダビデの姿をいかに語らう――ミケランヂエロの若きダビデの彫像の写真にしても、このときまだ雪子は知らない。後に欧洲《おうしゅう》の彷徨《ほうこう》の旅で知つたのである。それは伊太利《イタリー》フロレンスの美術館の半円周の褐色の嵌《は》め壁を背景にして立つ
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