でバーナード・シヨウの「セント・ヂヨン」を見た。一般の批評では、この著者は仏蘭西の聖少女を痛快に揶揄したやうに取沙汰された。しかし、桂子は聖少女がこの著者の気持よげに薙ぎ廻す皮肉の刃を、身に遣り過して一つも傷をとゞめない不逞の正体を感じ取つた。女には女の観る女の正体がある。他の人意の批判は目の触りにならない。自分でも意識し尽せぬ深い天然の力が、白痴であれ、田舎娘であれ、女に埋蔵されてゐて、強い情熱の鈎にかゝるときに等しくそれが牽き出される。それが場合によつては奇蹟のやうなこともする。または一生埋れ切る場合もある。どつちが女としての幸福か知れないけれど。
桂子は巴里へ帰つてから、その劇のことをマレイ夫人に話すと、
「しば/\作者の意図以上のものが出てしまふのが天才の芸術だといひますね。シヨウはたぶん天才でせう」
白けてはゐるが敬虔に媚びた笑を交へた彼女独得の美しい笑ひ方をした。
「丹花《たんくわ》を口に銜みて巷を行けば、畢竟、惧れはあらじ」
これは女学校友達の女流文学者K――女史が、桂子の講習所を開くとき掛額に書いて呉れた詞句だ。講習所の娘たちの間に、これを読んで、「丹花の呪禁《ま
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