させるという世にも珍らしいサルタンのような性質を持っている女なのではあるまいか。」
そして、それを知らないで、みすみすその精神的労苦を引受けた自分こそ、よい笑われものである。急に娘に対する憎みが起った。だが、また娘の顔を覗《のぞ》くと、あんまり鮮かで屈托がなさ過ぎる。私の反感も直ぐに消えてしまう。
「この無邪気さには、とても敵《かな》わない」
私は気力も脱けて、今度はしきりに朗吟の陶酔に耽《ふけ》っている、社長の肩を揺って、正気に還《かえ》らせ、
「これは真面目《まじめ》なご相談ですが……」と、木下の新嘉坡《シンガポール》に於ける女出入や、その他の素行に就《つ》いて、私はまるで私立探偵のように訊《き》き質《ただ》すのであった。
深林の夜は明け放れ、銀色の朝の肌が鏡に吐きかけた息の曇りを除くように、徐々に地霧の中から光り出して来た。
一本のマングローブの下で、果ものを主食の朝餐《ちょうさん》が進行した。レモンの汁をかけたパパイヤの果肉は、乳の香がやや酸※[#「やまいだれ+発」、742−下−21]《さんぱい》した孩児《あかご》の頬《ほお》に触れるような、※[#「車+(而/大)」、第3水準1−92−46]《やわら》かさと匂《にお》いがあった。指ほどの長さでまるまると肥っている、野生のバナナは皮を剥《は》ぐと、見る見る象牙色《ぞうげいろ》の肌から涙のような露を垂らした。柿の型をした紫の殻を裂くと、綿の花のような房が甘酸く唇に触れるマンゴスチンも珍らしかった。
「ドリアンがあると、こっちへいらっした紀念に食べた果ものになるのですがね。生憎《あいにく》と今は季節の間になっているので……。僕等には妙な匂いで、それほどとも思いませんが、土人たちは所謂《いわゆる》、女房を質に置いても喰《く》うという、何か蠱惑的《こわくてき》なものがあるんですね」若い経営主は云った。
「南洋の果ものには、ドリアンばかりでなく、何か果もの以上に蠱惑的なものがあるらしいです。ご婦人方の前で、そう云っちゃ何ですが、僕等だとて独身でこんなとこへ来て、いろいろの煩悩も起ります。けれどもそういうものの起ったとき、無暗にこれ等の豊饒《ほうじょう》な果ものにかぶりつくのです。暴戻《ぼうれい》にかぶりつくのです。すると、いつの間にか慰められています。だから手元に果物は絶やさないのです」
若い経営主は紫色の花だけ眼のように涼しく開けて、葉はまだ閉じて眠っているポインシャナの叢《くさむら》を靴の底でいじらしそうに※[#「てへん+(「縻」の「糸」に代えて「手」)」、743−上−20]《さす》りながら、こう云った。
娘は、今朝も事務員に混っていろいろ手伝っていたが、何となくそわそわしていた。そして、話にばつを合せるように、私には嫌味に思える程、きらきらした作り笑いの声を挙げた。しかし、若い経営主が、こういうにつれ、他の若い男たちも悵然《ちょうぜん》とした様子をみて、娘は心から同情する気持ちを顔に現した。
「僕の慰めは酒と子供だな」と社長は云った。
彼は今朝もビールを飲んでいた。
「君にもまだ慰めなくちゃならない煩悩があるのかね」と若い経営主は云った。「そんなにチッテ族の酋長《しゅうちょう》のような南洋色になっても」
社長は、「ある――大いにある」と怒鳴ったが、誰も酔いの上の気焔《きえん》と思って相手にしない。社長は口を噤《つぐ》んで仕舞った。
逆巻く濤《なみ》のように、梢《こずえ》や枝葉を空に振り乱して荒れ狂っている原始林の中を整頓《せいとん》して、護謨《ゴム》の植林がある。青臭い厚ぼったいゴムの匂いがする。白紫色に華やぎ始めた朝の光線が当って、閃《ひらめ》く樹皮は螺線状《らせんじょう》の溝に傷けられ、溝の終りの口は小壺《こつぼ》を銜《くわ》えて樹液を落している。揃って育児院の子供等が、朝の含嗽《うがい》をさせられているようでもある。馬来人《マレイじん》や支那人が働いている。
「僕等は正規の計劃《けいかく》の外、郷愁が起る毎に、この土に護謨の苗木を、特に一列一列植えるのです。妄念を深く土中に埋めるのです」
その苗木の列には、或は銀座通とか、日比谷とか、或は植主の生地でもあろうか、福岡県――郡――村とか書いた建札がしてあった。
若い経営主は、努めて何気なくいうのだが、娘は堪《た》まらなそうに、涙をぽたぽたと零《こぼ》して、急いでハンケチを出した。
中老の社長は、こういう普通の感傷を珍らしいように眺め、私に云った。
「どうです。あなた方も、紀念に一本ずつ植えて行っては」
護謨園の中を通っている水渠《すいきょ》から丸木船を出して、一つの川へ出た。ジョホール河の支流の一つだという。大きな歯朶《しだ》とか蔓草《つるくさ》で暗い洞陰を作っている河岸から、少し岐《わか》れて、流れの中に岩石がある。
「あすこによく鰐《わに》の奴が、背中を干しているのだが、……」と事務員の一人が指したが、そのすぐあと、艫《とも》の方にいた事務員がいった。
「こっちこっち、あすこにいます」
濁った流れの中に、黒っぽいものが、渦を水に曳《ひ》いて動くのが見えた。また、その周囲にそれも生きものが泳ぐのかと思われるほどの微《かす》かな小さい渦が見える。
「は は は 子供を連れとる」
私の気持ちはというと、この原始の自然があまりに、私たちの自然と感じ慣れているものより差違があり、この現実が却《かえ》って、百貨店の催しものの、造り庭のように見え、この南洋風景図の背景の前に、鰐《わに》がいるのは当然の趣向に見え、もう少し脅《おび》えたい気持ちをさえ自分に促した。鰐に向ける銃声の方が本当の鰐に対するより却って私たちを驚かした。鰐は影を没した。
「鉄砲の音は痛快ね」と娘はいって、しきりに当もなく発砲して貰った。
「あなた方内地の女性に向って、ふだん考え溜《た》めていたことを、話し出せそうな緒口《いとぐち》が見つかったようになって、お訣《わか》れするのは惜しいものです」と若い経営主はいった。
私も、「こういう本当の自然と、それを切り拓《ひら》いて行く人間の仕事に就《つ》いて、漸《ようや》く眼が開きかかって来たのに、お訣れするのは、まったく惜しい気が致します」といった。
娘は俯向《うつむ》いて、型のようにちょっと無名指《くすりゆび》の背の節で眼を押えた。その仕草が、日本女性のこういう場合にとる普通の型のように見え乍《なが》ら私はやはりこの遠方の異境にまで男を尋ねて来た娘が何かと感傷的になっている証拠にも見た。
私たちはジョホール河のベンゲラン岬から、馬来人《マレイじん》が舵※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]《かじ》を執り、乗客も土人ばかりのあやしいまで老い朽ちた発動機船に乗った。
「腰かけたまわりには、さっき上げといた蚤取粉《のみとりこ》を撒《ま》くんですよ。そうしないと虫に食われますよ」見送りの事務員の労《いたわ》った声が桟橋から響いた。娘はポケットを押えてみて、窓からお叩頭《じぎ》をした。
怠惰なエンジンの音が聞えて、機船は河心へ出た。河と云いながら、大幅な両岸は遠く水平線に退いて、照りつける陽の下に林影だけ一抹の金の塗粉のようになって見えた。それが水天一枚の瑠璃色《るりいろ》の面でしばしば断ち切れて、だんだん淡く、蜃気楼《しんきろう》の島のように中空に映り霞《かす》んで行く。たゆげな翼を伸した鳥が、水に落ちようとしてたゆたっている。
昼前に新嘉坡《シンガポール》の郊外のカトン岬の小さな桟橋についた。娘の待つ男の船は、今夜か明朝、新港に着く予定であった。
「まだ時間は大丈夫だ。ゆっくりして行きましょう。この辺もチャンギーと云って、新嘉坡の名所の一つで、どうせ来なくちゃならんところだ」社長はそういって、海の浅瀬に差し出してある清涼亭という草葺《くさぶ》き屋根の日本人経営の料亭へ、私たちを連れて行き、すぐ上衣を脱いだ。
「まあいい所ね」
私も娘も悦《よろこ》んだ。この辺の砂は眩《まぶし》いくらい白く、椰子《やし》の密林の列端は裾《すそ》を端折《はしょ》ったように海の中に入っている。
亭の前の崖下《がけした》は生洲《いけす》になっていて、竹笠《たけがさ》を冠《かぶ》った邦人の客が五六人釣をしている。
汐時のすこし湿っぽい畳の小座敷で、社長は無事見学祝いだとか、何とか云っては日本酒の盃を挙げている。海の匂《にお》いと酒の匂いが、自分たちの遠い旅をほのぼのと懐かしませる。私は生洲から上げたばかりという生け鱸《すずき》の吸ものの椀《わん》を取上げて、長汀曲浦《ちょうていきょくほ》にひたひたと水量を寄せながら、浜の椰子林をそのまま投影させて、よろけ縞《しま》のように揺らめかし、その遙かの末に新嘉坡の白亜の塔と高楼と煤煙《ばいえん》を望ましている海の景色に眼を慰めていた。だが、心はまだしきりに今朝ジョホール河の枝川の一つで、銃声に驚いて見張った私達の瞳孔《どうこう》に映った原始林の厳《おごそ》かさと純粋さを想《おも》い起していた。それはひどく心を直接に衝《う》った。何か人間にその因習生活を邪魔なものに思わせ、それを脱ぎ捨て度《た》い切ない気持ちにさせた。そしてその原始の自然に食い込んで生活を立てて行く仕事が、何の種類であれ、人間の生きる姿の単一に近いものであるように考えさせられた。始終自然から享《う》ける直接の豊饒《ほうじょう》な直観に浸れもしよう。
「二万円の護謨園《ゴムえん》をお買いになれば、年々その収益で、こっちへ休暇旅行ができますね。どうです」
座興的であったが若い経営園主がゆうべ護謨園で話の序《ついで》にこういうことを云ったのも想い出された。
私の肉体は盛り出した暑さに茹《ゆだ》るにつれ、心はひたすら、あのうねる樹幹の鬱蒼《うっそう》の下に粗い歯朶《しだ》の清涼な葉が針立っている幻影に浸り入っていた。
そのとき娘が「あらっ!」と云って、椀を下に置いた。そして、「まあ、木下さんが」と云って眼を瞠《みは》って膝《ひざ》を立てた。
小座敷から斜に距《へだ》てて、木柵の内側の床を四角に切り抜いて、そこにも小さな生洲がある。遊客の慰みに釣りをすることも出来るようになっている。
いま、その釣堀から離れて、家屋の方へ近寄って来る、釣竿を手にした若い逞《たく》ましい男が、娘の瞳《ひとみ》の対象になっている。白いノーネクタイのシャツを着て、パナマ帽を冠ったその男も気がついたらしく、そのがっしりした顔にやや苦み走った微笑を泛《うか》べながら、寛《ゆ》るやかに足を運んで来た。男は座敷の椽《えん》で靴を脱いだ。
「これはこれは、船が早く着いたのかい」
社長もびっくりして少し乗出して云った。
「けさ方早く着いちゃってね。早速、ホテルと君の事務所へ電話をかけてみたが、出ているというので、退屈凌《たいくつしの》ぎにここへ昼寝する積りで来てたんだが……」ひょっとするとここへ廻《まわ》るかも知れないとも思った。なにしろ新嘉坡へ来る内地の客の見物場所はきまっているからと云って男は朗に笑った。
私は男がこの座敷へ近寄って来る僅《わず》か分秒の間に、男の方はちらりと一目見ただけで、娘の態度に眼が離せなかった。
彼女は男が、娘や私たちを認めて、歩を運び出した刹那《せつな》に、「あたし――」といって、かなりあらわに体を慄《ふる》わして、私の肩に掴《つかま》った。その掴り方は、彼女の指先が私の肩の肉に食い込んで痛いくらいだった。ふだん長い睫毛《まつげ》をかむって煙っている彼女の眼は、切れ目一ぱいに裂け拡《ひろ》がり、白眼の中央に取り残された瞳は、異常なショックで凝ったまま、ぴりぴり顫動《せんどう》していた。口も眼のように竪《たて》に開いていた。小鼻も喘《あえ》いで膨らみ、濃い眉《まゆ》と眉の間の肉を冠《かぶ》る皮膚が、しきりに隆まり歪《ゆが》められ、彼女に堪え切れないほどの感情が、心内に相衝撃するもののように見えた。二三度、陣痛のようにうねりの慄えが強く、彼女の指先から私の肩の肉に噛《か》み込ま
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