れ、同時に、彼女から放射する電気のようなものを私は感じた。私は彼女が気が狂ったのではないかと、怖《おそ》れながら肩の痛さに堪えて、彼女の気色を覗《うかが》った。自分でも気がつくくらい、私の唇も慄えていた。
男は席につくと、私に簡単に挨拶《あいさつ》した。
「木下です。今度は思いがけないご厄介をかけまして」と頭を下げた。
それから社長に向って
「いや、あなたにもどうも……」これは微笑しながらいった。
娘は座席に坐《すわ》り直して、ちょっとハンケチで眼を押えたが、もうそのときは何となく笑っている。始めて男は娘に口を切った。
「どうかしましたか」それは決して惨《むご》いとか冷淡とかいう声の響ではなかった。
「いいえ、あたし、あんまり突然なのでびっくりしたものだから……」そして私の方を振り向いて、「でも、すべて、こちらがいて下さるものですから」と自分の照れかくしを仕乍《しなが》ら私に愛想をした。
娘は直《じ》きに悪びれずに男の顔をなつかしそうにまともに見はじめた。だが何気ないその笑い顔の頬《ほお》にしきりに涙が溢《あふ》れ出す。娘はそれをハンケチで拭《ぬぐ》い拭《ぬぐ》い男の顔に目を離さない――男もいじらしそうに、娘の眼を柔かく見返していた。
社長もすべての疎通を快く感ずるらしく、
「これで顔が揃《そろ》った。まあ祝盃として一つ」などとはしゃいだ。
私はふと気がつくと、娘と男から離れて、独り取り残された気持ちがした。こちらから望んで世話に乗り出したくらいだから、利用されたというような悪毒《あくど》く僻《ひが》んだ気持ちはしないまでも、ただわけもなく寂しい感じが沁々《しみじみ》と襲った。――この美しい娘はもう私に頼る必要はなくなった。――しかし、私はどんな感情が起って不意に私を妨げるにしても自分の引受けた若い二人に対する仕事だけは捗取《はかど》らせなくてはならないのである。私は男に、
「それで、結婚のお話は」
ともう判り切って仕舞ったことを形式的に切り出した。すると男はちょっとお叩頭《じぎ》して、
「いや、私の考がきまりさえしたら、それでよろしいんでございましょう。いろいろお世話をかけて申訳ありません」といった。
娘は私に向って、同じく頭を下げて済まないような顔をした。
もはや、完全に私は私の役目を果した。二人の間に私の差挟まる余地も必要もないのをはっきり自覚した。すると私は早く日本の叔母の元へ帰り、また、物語を書き継ぐ忍従の生活に親しみ度《た》い心のコースが自然私に向いて来た。
私たちからは内地の話や、男からは南洋の諸国の話が、単なる座談として交わされた。社長は別室へ酔後の昼寝をしに行った。
この土地常例の驟雨《スコール》があって後、夕方間近くなって、男は私だけに向って、
「ちょっとその辺を散歩しましょう。お話もありますから」と云った。
私は娘の顔を見た。娘は「どうぞ」と会釈した。そこで私は男に連立って出た。雨後すぐに真白に冴《さ》えて、夕陽に瑩光《えいこう》を放っている椰子林《やしりん》の砂浜に出た。
スコールは右手の西南に去って、市街の出岬の彼方の海に、まだいくらか暗沫《あんまつ》の影を残している。男はその方を指して「こっちはスマトラ」それからその反対の東南方を指して「こっちはボルネオ」、それから真正面の青磁色の水平線に、若い生姜《しょうが》の根ほどの雲の峯を、夕の名残《なご》りに再び拡《ひろ》げている方を指して、「ずーっと、この奥に爪哇《ジャバ》があります。みな僕の船の行くところです」
彼は一本の椰子の樹の梢《こずえ》を見上げて、その雫《しずく》の落ちない根元の砂上に竹笠《たけがさ》を裏返しに置き、更にハンケチをその上に敷き、
「まあ、この上に腰を降ろして頂きましょうか」
そして彼は巻莨《まきたばこ》を取り出して、徐《おもむ》ろに喫《す》っていたが、やがて、私から少し離れて腰をおろして口を切りだした。海を放浪する男にしては珍らしく律儀な処のある性質も、次のような男の話で知られるのであった。
「お手紙で、あの娘と僕とにどうしても断ち切れない絆《きずな》があることは判りました。実はその絆が僕自身にも強く絡《まつ》わっていたのがはっきり判ったのでご座います。それをご承知置き願って、これから僕の話すことを聞いて頂き度いのです。でないと、僕がここへ来て急に結婚に纏《まと》まるのが、単なる気紛《きまぐ》れのように当りますから」
彼は、私が大体それを諒解《りょうかい》できても、直《す》ぐさま承認出来ないで黙っているのを見て取ってこう云った。
「僕と許婚《いいなずけ》も同様なあれと僕との間柄を、なぜ僕がいろいろと迷って来たか、なぜ時には突き放そうとまでしたか、この理由があなたにお判りになっていらっしゃらないかも知れませんが……いやあなたばかりではない、あれにもまだ判っていない……」
彼はしまいを独言にして一番肺の底に残して置いたような溜息《ためいき》をした。私は娘の身の上を心配するについての曾《かつ》ての焦立《いらだ》たしい気持ちに、再び取りつかれ、ついこういってしまった。
「多分あなただけのお気持ちでしょう、そんなこと、私たちには判らなかったからこそ、あの娘さんは死ぬような苦しみもし、何のゆかりも無い私のようなものまで、おせっかいに飛び出さなくてはならない羽目に陥って仕舞ったのですわ。」
私の語気には顔色と共にかなり険しいものがあったらしい。すると、彼は突き立てている膝《ひざ》と膝との間で、両手の指を神経質に編み合せながら、首を擡《もた》げた。
「ご尤《もっと》もです。しかし、僕自身の気持ちが、僕にはっきり判ったのも、矢張りあなたが仲に入られたお陰なんです。その前まではただ何となくあの娘は好きだが、あの娘も女だ。あの娘も女だという事が気に入らない。ぼんやりこの二つの間を僕は何百遍となく引ずり廻《まわ》されていました。僕とて永い苦しい年月でした。ま、とにかく、僕の身の上話を一応|訊《き》いて下さい。第一に僕の人生の出発点からして、捨子という、悲運なハンディキャップがついているんです。」
彼の語り出した身上話とは次のようなものであった。
東京の日本橋から外濠《そとぼり》の方へ二つ目の橋で、そこはもはや日本橋川が外濠に接している三叉《さんさ》の地点に、一石橋がある。橋の南詰の西側に錆《さ》び朽ちた、「迷子のしるべの石」がある。安政時代、地震や饑饉《ききん》で迷子が夥《おびただ》しく殖えたため、その頃あの界隈《かいわい》の町名主等が建てたものであるが、明治以来|殆《ほとん》ど土地の人にも忘れられていた。
ところが、明治も末に近いある秋、このしるべの石の傍に珍らしく捨子がしてあった。二つぐらいの可愛《かわい》らしい男の子で、それが木下であった。
その時分、娘の家の堺屋は橋の近くの西河岸に住宅があったので、子のない堺屋の夫妻は、この子を引き取って育てた。それから三年して、この子が五つになった時分に、近所に女中をしていた女が、堺屋に現れて、子供の母だと名乗り出た。彼女は前非を悔い、不実を詫《わ》びたので、堺屋ではこの母をも共に引き取った。
母は夫と共に日露戦役後の世間の好景気につれ、東京の下町で夫婦共稼ぎの一旗上げるつもりで上京して来た。そういう夫婦の例にままあるとおり無理算段をして出て来た近県の衰えた豪家の夫妻で、忽《たちま》ち失敗した上、夫は病死し妻は、今更故郷へも帰れず、子を捨てて、自分は投身しようとしたが、子のことが気にかかり、望みを果たさなかった。そして西河岸の同じ町内に女中奉公をして、陰ながら子供の様子を見守っていたのだった。
堺屋では、男の児の母を家政婦みたように使うことになった。母は忠実によく勤めた。が、子供のことに係ると、堺屋の妻とこの母との間に激しい争いは絶えなかった。
一度捨てたものを拾って育てたのだから、この子はわたしのものだと、堺屋の妻は云った。一度は捨てたが、この子のために死に切れず、死ぬより辛い恥を忍んで、世間へ名乗り出ることさえした位だから、この子はもとより自分のものだと、木下の母は云った。
「よく考えてみれば、僕にとっては有難いことなのでしょうが、僕は物心ついてから、女のこの激しい争いに、ほとほと神経を使い枯らし、僕の知る人生はただ醜い暗いものばかりでした」
生憎《あいにく》なことに、木下は生みの母より、堺屋の妻の方が多少好きであった。
「堺屋のおふくろさんは、強情一徹ですが、まださっぱりしたところがありました。が、僕を自分ばかりの子にして仕舞いたかった気持ちには、自分に男の子がないため、是非欲しいという量見以外に、堺屋の父親が僕をとても愛しているので、それから牽《ひ》いて、僕の生みの母親をも愛しはしないかという心配も幾らかあったらしいのです。こういう気持ちも混った僕への愛から、堺屋のおふくろは、しまいには僕だけ自分の手元にとどめて、母だけ追出そうとしきりに焦ったのです。それでも堺屋の母はただ僕の母に表向きの難癖をつけたり、失敗を言い募ったりする、まだ単純なものでした」
ところが、木下の生みの母はなかなか手のある女だった。
「一度こういうことがありました。堺屋のおふくろが、僕に掻餅《かきもち》を焼いて呉《く》れていたんです。その側には僕の生みの母親もいました。堺屋のおふくろは、焼いた掻餅を普通に砂糖醤油《さとうじょうゆ》につけて僕に与えました。すると僕の母はそれを見て、そっとその掻餅を箸《はし》で摘み取り、ぬるま湯で洗って、改めて生醤油《きじょうゆ》をつけて、僕に与えました。僕は子供のうちから生醤油をつけた掻餅が好きだったのです」
しかし、いくら子供の好みがそうだからと云って、堺屋のおふくろに面当てがましく、掻餅を目の前で洗い直さないでもよさそうだと木下は思った。その上子供の木下に向って、掻餅を与えながら、一種の手柄顔と、媚《こ》びと歓心を求める造り笑いは、木下に嫌厭《けんえん》を催させた。堺屋のおふくろは箸《はし》を投げ捨て、怒って立って行った。
「また、こういうことがありました。僕が尋常《じんじょう》小学に入った時分でした。その夜は堺屋で恵比須講《えびすこう》か何かあって、徹夜の宴会ですから、母親は店へ泊って来る筈《はず》です。ところが夜の明け方まえになって、提灯《ちょうちん》をつけて帰って来ました。そして眼を覚ました僕の枕元に座って、さめざめと泣くのです。堺屋のお内儀《かみ》さんに満座の中で恥をかかされて、居たたまれなかったと云います」
これも後で訊《たず》ね合せて見ると、母親の術であるらしく、ほんのちょっとした口叱言《くちこごと》を種に、子供の同情を牽《ひ》かんための手段であった。
「何でも下へ下へと掻《か》い潜って、子供の心を握って自分に引き付けようとするこの母親の術には、実に参りました。子供の心は、そういうものには堪えられるものではありません。僕は元来そう頭は悪くない積りですが、この時分は痴呆症《ちほうしょう》のようになって、学校も仮及第ばかりしていました」
木下が九つの時に堺屋の妻は、女の子を生んだ。それが今の娘である。しかし、堺屋の妻は、折角楽しんでいた子供が女であることやら、木下の生みの母との争奪戦最中の関係からか、娘の出生をあまり悦《よろこ》びもせず、やはり愛は男の子の木下に牽れていた。木下の母親は、「自分に実子が出来た癖に、まだ、人の子を付け覗《うかが》っている。強慾な女」と罵《ののし》った。
ところが、晩産のため、堺屋の妻は兎角《とかく》病気勝ちで、娘出生の後一年にもならないうちに死んで仕舞った。
その最後の病床で、堺屋の妻は、木下の小さい体を確《しっか》り抱き締めて、「この子供はどうしてもあたしの子」とぜいぜいいって叫んだ。すると生みの母親は冷淡に、「いけませんよ」といって、その手から木下を靠《も》ぎ去った。堺屋の主人は始め不快に思ったが、生みの母のすることだから誰も苦情はいえなかった。
すると堺屋の妻は、木下
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