両国橋の北詰で隅田川に注ぐまで、幾多の下町の堀川とも提携する。
 東京の西北方から勢を起しながら、山の手の高台に阻まれ、北上し東行し、まるで反対の方へ押し遣《や》られるような迂曲《うきょく》の道を辿《たど》りながら、しかもその間に頼りない細流を引取り育《はぐく》み、強力な流れはそれを馴致《じゅんち》し、より強力で偉大な川には潔く没我合鞣《ぼつがごうじゅう》して、南の海に入る初志を遂げる。
 この神田川の苦労の跡を調べることも哀れ深いが、もとこの神田川は麹町台《こうじまちだい》の崖下《がけした》に沿って流れ、九段下から丸の内に入って日本橋川に通じ、芝浦の海に口を開いていた。この江戸築城以前の流域を調べることは何かと首都の地理学的歴史を訪ねるのに都合が良かった。例えば、単に下流の部分の調査だけでも、昔大利根が隅田川に落ちていた時代の河口の沖積《ちゅうせき》作用を確めることが出来たし、その後、人工によって河洲を埋立てて、下町を作った、その境界も知れるわけであった。この亀島町辺も三百年位前は海の浅瀬だったのを、神田明神のある神田山の台を崩して、その土で埋めて慥えたものである。それより七八十年前は浅草なぞは今の佃島《つくだじま》のように三角洲《デルタ》だった。
 こういう智識もその若い学者から学ぶところが多かったと、娘は真向から恋愛の叙情を語り兼ねて先《ま》ずこういう話から初めたのであった。
 娘は目白の学校への往復に、その川べりのどこかの男の仕事場で度々|出遇《であ》い、始めはただ好感を寄せ合う目礼から始まって、だんだんその男と口を利き出すようになった。娘は、その男から先ず彼女に縁のある土地と卑近な興味の智識によって、東京生れの娘が今まで気付かずにいたものの、その実はいかに東京の土と水に染《し》みているかを学問的に解明された。
「明日は、大曲《おおまがり》の花屋の前の辺にいます。いらっしゃい」
 その若い学者は科学の中でも、過去へ過去へと現代から離れて行く歴史性に、現実的の精力を取籠《とりこ》められて行く人にありがちな、何となく世間に対しては臆病《おくびょう》であり乍《なが》ら、自己の好みに対しては一克《いっこく》な癇癖《かんぺき》のようなものを持っていた。それは純粋な坊ちゃん育ちらしい感じも与えた。
「さあ、明日からはいよいよお茶の水の切り堀りに取りかかりましょう。学校へは少し廻りになるかも知れませんが、いらっしゃい、いいでしょう」
 この男が、いいでしょうというときは、既に決定的なものであって、おずおずとは云い出すのだが、云い出した以上、もう執拗《しつこ》く主張して訊《き》き入れなかった。
 万治の頃、伊達家《だてけ》が更に深く掘り下げて舟を通すようになったので、仙台堀とも云っている、この切堀の断崖《だんがい》は、東京の高台の地層を観察するのに都合がよかった。第四紀新層の生成の順序が、ロームや石や砂や粘土や砂礫《されき》の段々で面白いように判った。もうこの時分、娘は若い学者の測量器械の手入れや、採集袋の仕末や、ちょっとした記録は手伝えるようになっていた。
 娘は学者の家へも出入りするようになっていた。富んだ華族の家で、一家は大家族だが、みな感じがよく、家の者も娘を好んだ。若い学者は兄弟中の末子で、特に両親に愛されているようだった。
「お茶を飲みに行きませんか」「踊りに行きませんか」こういうこともある傍、娘は日本橋川を中心に、その界隈《かいわい》の堀割川の下調べを頼まれもした。
 八ヶ月ほどかかった旧神田川の調査のうちに、娘は学校を卒業した。娘はその若い学者に結婚を申込まれた。
「いいでしょう、君」
 やはり、おずおずと云い出すのだが、執拗《しつこ》く主張した。娘想《むすめおも》いの老父は、まことに良縁と思い、気心の判らぬ海へ行った若い店員との婚約は解消して是非その男に娘を嫁入らせると意気込んだ。
 海にいる若い店員からも同意の電報が来た。
 小さいときから一緒に育ったけれども、青年期に入る頃から海に出はじめ、だんだん父娘《おやこ》には性格が茫漠《ぼうばく》として来た若い店員には、今はもう強いて遠慮する必要は無い。娘の結婚を知らせるにも気易かった。若い学者との結婚の仕度は着々運んで行った。
「川を溯《さかのぼ》るときは、人間をだんだん孤独にして行きますが、川を下って行くと、人間は連を欲し、複数を欲して来るものです」
 若い学者は内心の弾む心をこういう言葉で娘に話した。娘も嫌ではなかった。
 だが、ある夜遅くあの部屋へ入って、結婚|衣裳《いしょう》を調べていて、ふと、上げ潮に鴎《かもめ》の鳴く声を聴いたら、娘は芝居の幕が閉じたように、若い学者との結婚が馬鹿らしくなった。陸へ上って来ない若い店員が心の底から恋われた。茫漠とした海の男への繋《つなが》りをいかにもはっきりと娘は自分の心に感じた。
 一時はひどく腹を立てても、結局、娘想いの父は、若い学者の家には、平謝りに謝って、結婚を思い切って貰った。若い学者はいくらか面当ての気味か、当時女優で名高かった女と結婚して、ときどき家庭はごたごたしている。
「じゃあ、その方には恋ではなくって、学問の好奇心で牽《ひ》かれて行ったのね。道理で、あなた、河川の事に詳しいと思った」
 私は苦笑したが、この爛漫《らんまん》とした娘の性質に交った好学的な肌合いを感じ、それがこの娘に対する私の敬愛のような気持ちにもなった。
「あなた男なら学者にもなれる頭持ってるかも知れないのね」
 娘は少し赫《あか》くなった。
「……私の母が妙な母でした。漢文と俳句が好きで、それだのに常盤津《ときわず》の名取りでしたし、築地のサンマー英語学校の優等生でしたり……」
 娘はその後のことを語り継いだ。その後、久し振りで、陸に上って来た若い店員に思切って訊いた。
「どうしたら、私はあなたに気に入るんでしょう」
 男はしばらく考えていたが、
「どうか、あなたが今よりも女臭くならないように……。」
 海の男は相変らず曖昧《あいまい》なことを云っているようで、その語調のなかには切実な希求が感じられたと娘は眼に涙さえ泛《うか》べ、最上の力で意志を撓《たわ》め出すように云った。
「私のそれからの男優《おとこまさ》りのような事務的生活が始まりました。その間二三度その男は帰って来ましたが、何とも云わずに酒を飲んで、また寂しそうに海へ帰って行きました。私はまだ、どこか灰汁《あく》抜けしない女臭いところがあるのかと、自分を顧みまして、努めようとしましたが、もうわけが分りません。迷い続けながら、それでも一生懸命に、その男の気に入るようにと生活して来ますうち、あなたにお目にかかりました」
 東京の中で、朝から食べさせる食物屋は至って数が少い。上野の揚げ出しとか、日本橋室町の花村とか、昔から決っているうち[#「うち」に傍点]である。そうでなければ各停車場の食堂か、駅前の旅籠屋《はたごや》や魚市場の界隈の小料理屋である。けれども女二人ではちょっと困る。私たちは寒気の冴《さ》える朝の楓《かえで》川に沿い、京橋川に沿って歩いたが、そうそうは寒さに堪えられない。車を呼び止めて、娘をホテルの食堂に連れて行き、早い昼飯を食べさした。そのあと、ローンジでお茶を飲みながら
「面倒臭いじゃありませんか、そんなこといつまでもぐずぐず云ってたって……そんなこと云って、その人が陸へ寄りつかないなら、こっちから私があなたを連れて、その人の寄る船つきへ尋ねて行き、のっぴき[#「のっぴき」に傍点]させず、お話をつけようじゃありませんか」
 私も東京生れで、いざとなると、無茶なところが出るのだが、それよりもこの得態の知れない男女関係の間に纏縛《てんぱく》され、退《ひ》くに退《ひ》かれず、切放れも出来ず、もう少し自棄気味《やけぎみ》になっていた。


 すべてが噎《むせ》るようである。また漲《みなぎ》るようである。ここで蒼穹《あおぞら》は高い空間ではなく、色彩と密度と重量をもって、すぐ皮膚に圧触して来る濃い液体である。叢林《そうりん》は大地を肉体として、そこから迸出《ほうしゅつ》する鮮血である。くれない極まって緑礬《りょくばん》の輝きを閃《ひらめ》かしている。物の表は永劫《えいごう》の真昼に白み亘《わた》り、物陰は常闇世界《とこやみせかい》の烏羽玉《うばたま》いろを鏤《ちりば》めている。土は陽炎《かげろう》を立たさぬまでに熟燃している。空気は焙《あぶ》り、光線は刺す――――――
 私と娘は、いま新嘉坡《シンガポール》のラフルス・ホテルの食堂で昼食を摂《と》り、すぐ床続きのヴェランダの籐椅子《とういす》から眺め渡すのであった。
 芝生の花壇で尾籠《びろう》なほど生《なま》の色の赤い花、黄の花、紺の花、赭の花が花弁を犬の口のように開いて、戯《ざ》れ、噛《か》み合っている。
「どう」私は娘に訊いた。
「二調子か三調子、気持ちの調子を引上げないと、とてもこの強い感じは受け切れないわ」と娘は眼を眩《まぶ》しそうに云った。娘は旅に出てから、全く私に倚《よ》りかかるようになっただけ、親しくぞんざいな口が利けるようになった。
 私には、あまりに現実に乗出し過ぎた物のすべてが、却《かえ》って感覚の度に引っかからないように、これ等の風物が何となく単調に感じられて眠気を誘われた。
「半音の入っていない自然というものは、眠いものね」
 私は娘が頸《くび》を傾けて、も一度訊き返そうとするのを、別に了解して欲しいほどの事柄でもないので、他の事を云った。
「兎《と》に角《かく》、熱いわね。こういう所で、ランデヴウする人も、さぞ骨が折れるでしょうが、そのランデヴウを世話する人は、いよいよ並大抵じゃないわね」
 私は揶揄《からか》いながら、横を向き、ハンカチを額へ持って行って、滲《にじ》み出す汗を抑えた。
 娘は真身《しんみ》に嬉しさを感ずるらしく、ちょっと籐椅子を私の方へいざり寄せ、肘《ひじ》で軽く私の脇《わき》の下を衝《つ》いた。
 私は娘の身の上を引受けてから、若い店員と話をつける手段を進めた。丁度ボルネオの沿岸を航行していた船の若い店員に手紙と電報で事情の経緯を簡単に述べ、あらためて、私が仲に立つ旨を云い遣《や》ると、店員からは案外喜んだ承諾の返事が来て、但《ただし》、いま船は暹羅《シャム》の塩魚を蘭領印度《らんりょうインド》に運ぶために船をチャーターされているから、船も帰せないし、自分も脱けられない。新嘉坡《シンガポール》なら都合出来る。見物がてら、ぜひそこへ来て貰い度《た》いと、寧《むし》ろ向うから懇請するような文意でもあった。
 私は娘にはああは約束したが、たかだか台湾の基隆《キールン》か、せめて香港《ホンコン》程度までであろうと予想していた。そこなら南洋行きの基点ではあり、双方好都合である。新嘉坡となると、ちょっと外遊するぐらいの心支度をしなければならない。
 ――少し当惑しているとき思いの外力になったのは叔母である。娘のとき藩侯夫人の女秘書のようなことをして、藩侯夫妻が欧洲の公使に赴任するとき伴われ、それから帰りには世界の国々をも廻《まわ》って来た女だけに、自分の畑へ水を引くように、私を励ました。
「あんたも一遍そのくらいのところへ行っていらっしゃい。すると世間も広くなって、もっと私と話が合うようになりますから」
 それから、女二人の旅券だの船だの信用状だのを、自分一人で掻《か》き込むようにして埒《らち》を開け、神戸まで見送って呉《く》れた。


 シンガポール邦字雑誌社の社長で、南洋貿易の調査所を主宰している中老人が、白の詰襟服《つめえりふく》にヘルメットを冠《かぶ》って迎えに来て呉れた。朝、船へは紋付の和服で出迎えて呉れたのであるが、そのときに較《くら》べて、いくらか精気を帯びて見えた。
「名物のライスカレーはいかがでしたか。とても辛くて内地の方には食べられないでしょう」
 私は昼の食堂で、カレー汁の外に、白飯に交ぜる添菜《てんさい》が十二三種もオードゥブル式に区分け皿に盛られている
前へ 次へ
全12ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング