にございませんが、一旦そうおなりになると一人であすこ[#「あすこ」に傍点]へ閉籠《とじこも》って、人と口を利くのを嫌がられます」
若《も》しかして、昨日、茶席での談話が、娘を刺戟《しげき》し過ぎて、娘は気鬱症を起したのかも知れない。そう云えばだんだん娘の性情の不平均、不自然なところも知れて来かかっていたし、そういう揺り返しが、たまたま起るということも、今更、不思議に思われなくなっていた。私は小店員の去ったあと、また河の雪を眺めていた。
水は少し動きかけて、退き始めると見える。雪まだらな船が二三|艘《そう》通って、筏師《いかだし》も筏へ下りて、纜《ともづな》を解き出した。
やや風が吹き出して、河の天地は晒《さら》し木綿の滝津瀬のように、白瀾濁化《はくらんだっか》し、ときどき硝子障子《ガラスしょうじ》の一所へ向けて吹雪の塊りを投げつける。同時に、形がない生きものが押すように、障子はがたがたと鳴る。だが、その生きものは、硝子板に戸惑って別に入口を見付けるように、ひゅうひゅう唸《うな》って、この建物の四方を馳《は》せ廻《まわ》る。
ふと今しがた小店員が云った気鬱症の娘が、何処に引籠《ひきこも》っているのだろうと私は考え始めた。暫《しばら》くして娘が気鬱症にかかるとあすこ[#「あすこ」に傍点]に……と云った小店員がその言葉と一緒に一寸《ちょっと》仰向《あおむ》き加減にした様子が、いかにも娘が、私の部屋の近くにでもいるような気配を感じさせたのに気づくと、娘は私の頭の上の二階にいるのではないかと、思わずしがみついていた小長火鉢から私は体を反らした。
一たい、この二階がおかしい。私がここへ来てから、もう一月半以上にもなるのに、階段を伝って、二室ある筈《はず》のそこへ出入りする人を見たことがない。階段を上り下りする人間は、大概顔見知りの店員たちで、それは確に、三階の寝泊りの大部屋へ通うものであって、昼は店に行っていてそこには誰もいない。二階の表側の一室は、物置部屋に代った空事務室の上だから、私の部屋からは知れないようなものの、少くとも河に面した方の二階の今一つの空部屋は私が半日ずつ住むこの部屋のすぐ頭の上だから、いかに床の層が厚くても、普通に人が住むならその気配いは何とか判りそうなものだ。それがふだん、まるきり無人の気配いであった。ひょっとしたら、娘がきょうはそっとその室に閉じ籠っているのではあるまいか。
それから、私は注意を二階に集めて、気を配ったが、雪は小止みとなり、風だけすさまじく、幽《かす》かな音も聴き取れなかった。定刻の時間になったので私は帰った。
あくる日は雪晴れの冴《さ》えた日であった。昨日から何となく私の心にかかるものがあって私は今までになく早朝に家を出て河岸の部屋へ来た。そしてやや改まった様子で机の前に座っていると、思いがけない顔をしてやま[#「やま」に傍点]がはいって来た。私は早く来たことについて好い加減な云いわけを云ったのち天井を振り仰ぎ乍《なが》らやま[#「やま」に傍点]に向って、
「どなたかこの上のお部屋にいるの」と訊《き》いた。
やま[#「やま」に傍点]は「はあ」と答えた。
私の心の底の方にあった想像が、うっかり口に出た。
「お嬢さんでもいらっしゃるのではないの」
すると、やま[#「やま」に傍点]の返事は案外、無雑作に、
「はあ、昨日もお昼前からいらっしゃいました」と云った。
「どういうお部屋なの」
やま[#「やま」に傍点]は「さあ」と云ったが、実際、室の中の事は知らないらしく、他の事で答えた。
「昨日の大雪で、あなたはお出にならないでしょうと、お嬢さんは二階のお部屋へお入りになりました。晩方、お部屋から出ていらっした時、私があなたがおいでになったのを申上げると、とても、落胆なすっていらっしゃいました。時々お二階の部屋へお嬢さんはお入りになりますが、その時はどんな用事でもお部屋へ申上げに行ってはならないと仰《おっしゃ》いますので……」
私には判った。それは娘の歎《なげ》きの部屋ではあるまいか、しん[#「しん」に傍点]も根《こん》も尽き果てて人前ばかりでなく自分自身に対しての、張気も装いも投げ捨てて、投げ捨てるものもなくなった底から息を吸い上げて来ようとする、時折の娘の命の休息所なのではあるまいか。
だが、ときどきにもせよ、そういう一室に閉じ籠れるのは羨《うらやま》しい。寧《むしろ》ろ嫉《ねた》ましい。自分のように一生という永い時間をかけて、世間という広い広い部屋で、筆を小刀《メス》に心身を切りこま裂いて見せ、それで真実が届くやら、届かぬやら判りもしない、得体の知れない焦立たしいなやみの種を持つものは、割の悪い運命に生れついたものである。
「で、今朝お嬢さんは?」
と私が云うと、やま[#「やま」に傍点]は俄《にわか》に思いついたように、
「ああそうでしたっけ、お嬢さんが今日あなたがいらしったら、お二階へおいで願うように申し上げて呉れと先程お部屋へ入るまえに仰いました」
やまはここまで云って、また躊躇《ちゅうちょ》するように、
「でも、お仕事お済ましになってからでないとお悪いから、それもよく伺って、ご都合の好い時に……って……」
私は一まずやま[#「やま」に傍点]を店の方へ帰して、一人になった。
河の水は濃い赤土色をして、その上を歩いて渡れそうだ。河に突き墜《おと》された雪の塊が、船の間にしきりに流れて来る。それに陽がさすと窈幻《ようげん》な氷山にも見える。こんなものの中にも餌《えさ》があるのか、烏が下り立って、嘴《くちばし》で掻《か》き漁《あさ》る。
烏の足掻《あしが》きの雪の飛沫《ひまつ》から小さな虹が輪になって出滅する。太鼓の音が殷々《いんいん》と轟《とどろ》く。向う岸の稲荷《いなり》の物音である。
私は一人になって火鉢に手をかざしながら、その殷々の音を聞いていると、妙にひしひしと寂しさが身に迫った。娘の憂愁が私にも移ったように、物憂く、気怠《けだ》るい。そしていつ爆発するか知れない焦々したものがあって、心を一つに集中させない。私は時を置いて三四度、部屋の中を爪立《つまだ》ち歩きをして廻って見たが、どうにもならない。やま[#「やま」に傍点]は娘が、私の仕事時間を済ましてから来て欲しいと言伝《ことづ》てたが、いっそ、今、直《す》ぐ独断に娘を二階の部屋へ訪ねてみよう――
二階の娘の部屋の扉をノックすると、私の想像していたとはまるで違って見える娘の顔が覗《のぞ》いて、私を素早く部屋の中へ入れた。私の不安で好奇に弾んだ眼に、直ぐ室内の様子ははっきり映らない、爪哇更紗《ジャバさらさ》のカーテンが扉の開閉の際に覗《のぞ》かれる空間を、三四尺奥へ間取って垂れ廻《まわ》してある。戸口とカーテンのこの狭い間で、娘と私はしばらく睨《にら》み合いのように見合って停った。シャンデリヤは点《つ》け放しにしてあるので、暗くはなかった。
思いがけない情景のなかで突然、娘に逢《あ》って周章《あわ》てた私の視覚の加減か、娘の顔は急に痩《や》せて、その上、歪《ゆが》んで見えた。ウェーヴを弾《は》ね除《の》けた額は、円くぽこんと盛上って、それから下は、大きな鼻を除いて、中窪《なかくぼ》みに見えた。顎《あご》が張り過ぎるように目立った。いつもの美しい眼と唇は、定まらぬ考えを反映するように、ぼやけて見えた。
娘は唇の右の上へ幼稚で意地の悪い皺《しわ》をちょっと刻んだかと見えたが、ぼやけていたような眼からは、たちまちきらりとなつかしそうな瞳《ひとみ》が覗き出た。
「…………」
「…………」
感情が衝《つ》き上げて来て、その遣《や》り場をしきりに私の胸に目がけながら、腰の辺で空に藻掻《もが》かしている娘の両方の手首を私は握った。私は娘にこんな親しい動作をしかけたのは始めてである。
「何でも云って下さい。関《かま》いません」
私のこの言葉と、もはや、泣きかかって、おろおろ声でいう娘の次の言葉とが縺《もつ》れた。
「あなたを頼りに思い出して、あたくしは……却《かえ》って気の弱い……女に戻りました」
そして、どうかこれを見て呉《く》れと云って、始めて私をカーテンの内部へ連れ込んだ。
東の河面に向くバルコニーの硝子扉《ガラスとびら》から、陽が差込んで、まだつけたままのシャンデリヤの灯影《ほかげ》をサフラン色に透き返させ、その光線が染色液体のように部屋中一ぱい漲《みなぎ》り溢《あふ》れている。床と云わず、四方の壁と云わず、あらゆる反物の布地の上に、染めと織りと繍《ぬ》いと箔《はく》と絵羽《えば》との模様が、揺れ漂い、濤《なみ》のように飛沫《ひまつ》を散らして逆巻き亘《わた》っている。徒《いたず》らな豪奢《ごうしゃ》のうすら冷い触覚と、着物に対する甘美な魅惑とが引き浪のあとに残る潮の響鳴のように、私の女ごころを衝《う》つ。
開かれた仕切りの扉から覗かれる表部屋の沢山の箪笥《たんす》や長持の新らしい木膚を斜に見るまでもなく、これ等のすべてが婚礼支度であることは判《わか》る。私はそれ等の布地を、転び倒れているものを労《いたわ》り起すように
「まあ、まあ」と云って、取上げてみた。
生地は紋綸子《もんりんず》の黒地を、ほとんど黒地を覗かせないまで括《くく》り染の雪の輪模様に、竹のむら垣を置縫いにして、友禅と置縫いで大胆な紅梅立木を全面に花咲かしている。私はすぐ傍にどしりと投げ皺《しわ》められて七宝配《しっぽうくば》りの箔が盛り上っている帯を掬《すく》い上げながら、なお、お納戸色《なんどいろ》の千羽鶴《せんばづる》の着物や、源氏あし手の着物にも気を散らされながら、着物と帯をつき合せて、
「どう、いいじゃないの……」と、まるで呉服屋の店先で品選《しなえ》りするように、何もかも忘れて眺めていた。
娘は、私から少し離れて停っていた。
「今日、あなたに見て頂こうと思いまして、昨夜|晩《おそ》くまでかかって展《ひろ》げて置きましたのですけど……あたくし、こんなもの、何度、破り捨てて、新らしく身の固めを仕直そうと思ったか判りません。でも、やっぱり出来ないで……時々ここへ来ては未練がましく出したり取り散らしたりして見るのですけれど……」
明るみに出て、陽の光を真正面に受けると、今まで薄暗いところで見た娘の貌《かお》のくぼみやゆがみはすっかり均《な》らされ、いつもの爛漫《らんまん》とした大柄の娘の眼が涙を拭《ふ》いたあとだけに、尚更《なおさら》、冴《さ》え冴《ざ》えとしてしおらしい。
「いつ頃、これを慥えなさって?」
「三年まえ……」
娘はしおしおと私に訴える眼つきをした。私は堪《たま》らなく娘がいじらしくなった。日はあかあかと照り出して、河の上は漸《ようや》く船の往来も繁《しげ》くなった。
「あんまりこんな所に引込んでいると、なお気が腐りますからね。きょうは、何処か外へ出て、気をさっぱりさせてから、本当にご相談しましょう」
河岸には二人並んで歩ける程、雪掻《ゆきか》きの開いた道が通り、人の往来は稀《まれ》だった。
二歳のとき母に死に訣《わか》れてから、病身で昔ものの父一人に育てられ、物心ついてからは海にばかりいる若い店員のつきとめられない心を追って暮らす寂しさに堪え兼ねた娘は、ふと淡い恋に誘われた。
相手は学校へ往き来の江戸川べりを調査している土俗地理学者の若い紳士であった。この学者は毎日のように、この沿岸に来て、旧神田川の流域の実地調査をしているのであった。
河の源は大概複雑なものだが、その神田川も多くの諸流を合せていた。まず源は井頭池から出て杉並区を通り、中野区へ入るところで善福寺川を受け容《い》れ、中野区淀橋区に入ると落合町で妙正寺《みょうしょうじ》川と合する。それから淀橋区と豊島区と小石川区の堺の隅を掠《かす》めて、小石川区|牛込《うしごめ》区の境線を流れる江戸川となる。飯田橋橋点で外濠《そとぼり》と合流して神田川となってから、なお小石川から来る千川を加え、お茶の水の切り割りを通って神田区に入り、
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